第52話 「コルチカムの天使」

「痛い、痛み、痛い、いぃぃぃい……」

 心臓を貫かれたアルステマ王は身体を大きく反らしながら、その中身を晒していた。血と臓物が飛び散った地面に膝をついたトリムは過呼吸になりながら涙を流している。

「トリム……」

 フロワが彼女の元に駆け寄って肩に手を置く。それすらもはねのけた彼女は今、己が人生を回顧している。

望んでいたモノは何だったか。

―――復讐に決まっている。そのために走り続けてきた。けれどその果てに待っていたのは純然たる悪ではなかった。そんなことがあるかもしれないと考えなかった訳ではない。ただそれ以上に憎くて悲しくてどうしようもない感情を抱えていた。汚泥のように心を濁らせ淀ませるそれを抱えながら走り続けてきた彼女にはどうしようもない”悪”が必要だった。

涙の伝う頬を照らす光。彼女が顔を上げるとそこには羽化しようとしているアルステマ王だった者の姿があった。

「枷は解き放たれた、今こそ、今こそ我が願いを、神となる時……!」

 萎れた羽が広がっていく。トリムがその眩さに目を細めた後には、肉体の中に秘められていた神秘が明確な形を伴って現れていた。

 身体は動かない。それは恐れからではない。己が内から溢れ出す諦念によるもの。今まで天使と戦ってきた彼女だからこそ、あの光が如何に強大な力を秘めているかの証左であることは分かっていた。目を潰すような光と、身体全体を包み込む温かな抱擁感。

「その力も頂戴するとしよう」

「トリム……!」

 フロワの手が彼女の腕をつかむ。だがその瞬間すぐにセラフィムにより弾き飛ばされる。

 身体が光で溶けるような感覚だ。肉も骨も無くなって、魂だけになる。そんな感覚が彼女の身体を支配する。

「人の身に落ちた者などその程度のものか。明確な悪で無ければ意義すら見いだせないとはな」

 嘲笑する声が遠くなる。あぁ、熱い。焼けるような身体を今すぐに脱ぎ捨ててしまいたい。

そうしてトリムは自身の胸に手を置いた。無意識にした行動に疑念を抱きながらも、手のひらにはその答えが握られていた。

「これは……」

 紐は焼け落ち、宝石だけがそこにある。空が凝固したような青をそっと包み込む。

次の瞬間、彼女は空にいた。

 掩映、雲海から突き落とされる浮遊感。身体を駆け抜ける風があの時の記憶を呼び覚ます。

遠雷の鳴る方向。稲光と共に聞こえるかすかな声。

「愛せなくて、ごめんなさい」

 その声を知っていた。最初から全て知っていた。

私が今こうして墜ちて行っているのはセラフィムが襲ってきたから。

母がこうしたのはそうしなければ私を助けられなかったから。

決して、彼女は悪くなかった。あんな事が無ければ、彼女は過剰とでも言うべき愛で私を包み込んだだろう。だから、悪くない。悪くなかった。

「天よ、あの子を愛せる機会せかいをどうか、私に……」


手のひらにある宝石が砕け散る。それと同時に燃え尽きるこの身体を冷ます記憶が身体中を駆け巡る。

「私はただそう在りたいだけだった」

「何……?」

「あの声に、あの願いに報いたい。そのために私はここまで来たんだ」

 四肢に力が滾る。意志に炎が宿る。その炎は己が心身を焦がす事は無い、決意の熱。既に、彼女の身体を駆動させるのには十分な熱が、そこにはあった。

「全く、過剰すぎる。自分の子供のために、子供の親友の命を取ろうだなんて」

 前を向く。その背中に翼を広げる。一度熾った肉体から流れた血がそれに混じり合う。薄紫の翼が彼女が天使としての力を完全に取り戻したこと表していた。

「アルメンの置き土産、己が身を代償にした再生か……!」

「語る事は無いわ。あんたは全てを裏切った。己が欲望の為だけに神に成り代わるなど言語道断」

「は、小娘風情が何を言うかね」

「見た目で判断するなんて、人臭くなったじゃないセラフィム。遠慮無く、一言で還してあげるわ」

「……?」

 私はただ命ずるだけ。己の在り方を、翼を切り落とす刃にするだけ。

「私はどの位階秩序にも当てはまらない天使よ。何せ、生まれてすぐに堕とされたからね」

 彼女の右手が固く握りしめられる。そこは既に何かが握られているようになっている。

「―――だからこそ、あんたみたいな成り損いを殺す槍だって出せるのよ……!」

 神速の突きが放たれる。セラフィムはただ、己が胸を貫いた槍を驚愕しながら見つめることしか出来なかった。

その槍はそうあるように定められた即席の槍。指向性の無い彼女の力をただ殺すことだけに研ぎ上げた天使の牙。

それは、かつて母が子に対して願った夢と、子が母に対して捧げた誓い。そして、己が欲望の為に神をも裏切ったある天使の愚行の果てだった。


時間が戻されるように、街が元の姿を取り戻していく。

最後の瓦礫が元の場所へ戻った後も、街は静かなままだった。

全てが終わった後、二人は墓前に花を手向けた。

アルメンはその身を犠牲にして、炎からトリムを救っていた。砕け散った宝石と共に、彼女はそこに眠っている。

二人はタンポポに彩られた墓を背に、街へと帰っていった。穏やかな風が吹く、春だった。

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コルチカムの天使 猿烏帽子 @mrn69

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