第24話 「曇りゆく空」

「ん……」

「トリム……!」

 小さな声を上げるとともに、彼女は目を覚ました。

その瞳は少し潤んでおり、触れた額も未だに熱を帯びていた。

「無事ですか」

「んー……」

 やはりまだ本調子でないようでどことなく視線も言葉もゆらゆらと所在なく漂っていた。

フロワは片手に持っていた本を閉じると、トリムの額に置かれていた濡れタオルを巷間した。

額に冷たいタオルを乗せると、彼女は小さく吐息を漏らした。

「何か欲しいものとかありますか」

「つめたいもの……」

「冷たい物、ですか」

「のみものでも、いや、アイスがたべたいな」

「冷蔵庫にはないはずなので、買ってくることになりますけど、我慢出来ますか?」

「子供じゃないからそれぐらい、だいじょうぶ」

 そう言う彼女の口調は普段よりもどことなく幼く感じた。彼女は一言話すたび、苦しそうな息を整えていた。

「では、買ってきます」

「ん……」

 フロワが寝室から出ていく時、ベッドの方を見やると、一時、夢から覚めたように目覚めた彼女は再び眠りについていた。

 

速歩で通り行くフロワの耳に、どこか騒々しい街の喧騒が届く。

片手に提げた袋の中のバニラアイスがガサガサと音を鳴らしていたのが、彼女の「あっ」という声と共に鳴り止んだ。

街行く人々の全員がどこからか聞こえてくる言い争いの声に足を止めた訳ではなかったが、彼女のようにその店に毎日通っているであろう人々はその様子を不安そうな表情で見つめていた。

「二度とその顔を見せるな……!」

「そんな、僕は……」

「黙れ!」

「ちょっと、お父さん……」

 人々の視線の先をフロワが追うと、そこには花屋の娘、リリーの姿とアドニス、それと初老の男性の姿があった。

リリーは今にも泣き出しそうで、アドニスに怒鳴りつけている父親らしき人物への制止の声は悲しみに包まれていた。

「私の娘を穢す気か!」

 父親の怒号を受けてなお、アドニスはどうにか父親の怒りを収めようとしていたが、その言葉は彼の耳には届かず、理解を望む声は一方通行の彼への憎しみにも似た怒りによって掻き消されていた。

鮮やかな花が誇らしげに咲き並ぶ店先は、いつものような輝きを失い、そこには社会に深く根ざした怨恨と誤解が、根腐れた時間を自ら掘り起こして再び日の目を見ようとその芽を伸ばしていた。

「お父さん、アドニスはそんな人じゃないから……!お願いだからやめてってば!」

「お前は少し黙っていなさい」

「何でよ、これは私の―――」

「―――これは私にも関係のあることだ。私はお前の親なんだぞ」

 彼女の眼から流れた涙を見て、少し熱が冷めた彼は、落ち着きを取り戻した口調で、やはり静かな怒りを抱いていた。

その様子を見たアドニスが再び口を開く。

「確かに、あなたはリリーの父親です。でも結婚するかどうかは彼女が決めることじゃないですか」

「黙れ!お前が、お前のような生まれの人間が、私の娘を幸せに出来るとでも言うのか!?」

「出来ます!」

「無理だ、絶対に!」

「何故そう分かるんですか!」

「お前に流れている穢らわしい血がそう訴えておるのだ、この痴れ者が!」

 一言一言、互いの応報は牙を剥くように苛烈になっていき、次第に両者の間には殺意にも似た空気が漂い始めていた。

アドニスは決して手を挙げるような素振りは見せなかったが、その拳は固く握り締められており、その屈辱と悲憤によって歪んだ口元が今にも噴出しそうな呪言が紡がれるのをどうにか抑えていた。

彼女の父親はというと、手当たり次第に思いつく言葉を吐き出しては、アドニスの身体を少しでも娘から離そうと彼のことを道脇の方へと突き飛ばしていた。


周囲にいた人々が彼らの口論を見ては、近くにいた人々と思い思いに小さく議論を交わし、それぞれが持っていた情報を突き合わせては彼らの行く末を見守っていた。

「未だにそんなことを宣う人がいるなんてねぇ……」

 フロワの傍らにいつの間にか立っていた妙齢の女性が誰に言うでもなく独りごちる。

「やはり、ディラシネは未だに忌み嫌われるものなんでしょうか」

 彼女がそう言うと、その女性は困ったような表情を浮かべてこう答えた。

「アルステマ王は何もしてこなかったけど、ここいらの人達は表立って彼らのことを忌避するような真似はしなくなったわ」

「そう、ですか」

「えぇ。でもやっぱり、禍根が残っている人もいるのねぇ……。あの二人も可哀想に」

 それを聞いていたもう一人の女性が伏し目がちに呟く。

「でも最近の誘拐事件、ディラシネが関係しているって噂もあるじゃない」

「それはあくまでも噂じゃない。本当にそうなのかは分からないじゃないのよ」

「まぁ、そうなんだけどねぇ……」

 彼女たちの会話がかつての禍根の残滓が未だに残っていることを証明し、それを声高に叫ぶように、リリーの父親はさらに激昂し、アドニスへまくしたてている。

アドニスはただ何も言わず、歯噛みしているのみだった。

「もう、やめて……」

 顔を手で覆った彼女と呼応するように、空はいつの間にか曇天の様相を見せ、ポツポツと雨が降っては人々の身体を叩いていた。

それに気づいた人々が、時折振り向きながらもその場から離れていき、人々がいなくなってもなお、彼らは雨ざらしの中怒りを叫んでいた。


薄暗い路地を行く彼女の姿がいつもよりも所在なさげであるのは、この雨のせいなのか。

彼女が誰よりも悲壮な表情を浮かべていたのは、あの並び立てられた人々の声の数々がディラシネへの憤りや煩慮によって育てられた心情の数々だったからだろうか。

ずぶ濡れになって立った家の扉、その鍵穴を回すのが躊躇われたのは、それに対する自らの心の蒼惶だったのは確かだった。


彼女が着替えを済ませ、寝室へと顔を見せた時には、アイスは少しだけ溶け始めていた。

その扉を開けた時の音に気づいたトリムは、少しだけ顔をこちらに向けると、先ほどよりもしっかりとした口調で彼女にに話しかけた。

「遅かったわね、何かあったの?」

「いえ……。ちょっとだけ道に迷ったというか」

「はい?」

 不思議そうな表情を浮かべている彼女を尻目に、フロワはベットの傍らに座り、スプーンで一口大の量のアイスを掬った。

「あなたが元気になったら話します」

「そう……」

「はい、どうぞ」

「え」

トリムが困惑した表情を見せたのを見て、今度はフロワが不思議そうな表情を浮かべた。

「何ですか」

「自分で食べられるわよ」

「あ……」

 無意識に行っていたことに気づいた彼女は少し赤面したあと、意地を張ってスプーンを彼女の口元に突きつける。

「食べてください」

「でも」

「いいから」

「……はい」

 彼女に気圧されるようにして頬張ったその一口は、火照った身体を少しだけ冷やしてくれた。

「早く元気になってもらわないと、私も困るんですから」

「悪かったって。文献調査は私もやるから一人でやらなくてもいいわよ」

「……そっちじゃないです」

 トリムの答えに少しむくれる様子を見せると、彼女は小さな声で訴えた。

「冷凍食品、そろそろ飽きましたから」

 その一言を聞いたトリムは何となく照れくさいような気がして、手持ち無沙汰になっている右手でずれた布団を掛け直していた。

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