第15話 「苦悩する王」
冷たい廊下を、音を立てながら歩いていく。
地面に敷き詰めらた緋色の絨毯には、数人ほどの足跡が散見された。
窓は見当たらず、隙間風など通るはずがないのにどこか薄ら寒いこの場所を、男はただ前を向いて歩いていく。
眼の前に現れる一室の扉。ノックの音が、妙に虚しい響きを携えて部屋の向こうへと伝わっていく。
「入れ」
男はその命令に従い、静かに扉を開ける。
「何用だ」
堂々とした口調はこれまでの歩みを称えて耳朶に触れ、儼乎たる風貌、年老いた白い肌はどこか幽鬼を思わせる。
男は恭しく頭を垂れる。
「アルステマ王、僭越ながら申し上げます。クレムティス領土内にて、不穏分子を確認致しました」
「それで」
「大戦後、ディラシネの嘆願を退けて以来、彼らは影にその怒りを収めていましたが、それももう限界のようです。ついに彼らを先導するものが現れたとの報告がありました」
「……そうか」
溜息をしたアルステマは、机上に指を組むと、再びその心境を吐露するように溜息をついた。
「件の話、トネールはなんと?」
男は顔を伏せ、苦々しげに答えた。
「断る、と。今回もどうにか協力してくれないか熟議したのですが、何を言っても首を縦に振ることはありませんでした」
「……」
言葉にならぬ呻き声を上げるアルステマ。その顔にはこれまでの苦悩が刻まれていた。
「陛下、やはり同君連合には限界があります。先王、ティムロアは病により崩御。そろそろ、頃合いかと」
「……」
アルステマは何も言わなかった。
イヴェル・ヴィレンスとクレムティス、両国は隣国ということもあり、以前は友好関係を築いていた。だが、その関係も神威大戦により脆く崩れ去った。
戦勝国であるイヴェル・ヴィレンスの王、アルステマはクレムティスに広範な自治権を認めた。
だが、それが同君連合になった原因ではなかった。アルステマはクレムティスの王ティムロアを父に持ち、イヴェル・ヴィレンスの先代女王、イベリスを母に持つ、息子であった。
この婚姻により、二国は統一される予定であったのだが、それがイベリスの急逝により先送りに。彼女の後を継いだのは弱冠十八の少年、アルステマだった。
以降、彼は王としての責務をその身体に一身に引き受けた。彼の王としての道は前途多難であったが、周囲の人間がそれを支え、王として育てた。だが、そこにティムロアの姿はなかった。
イベリスの死後、彼女の死に憔悴しきった彼は爾来、民衆の前に姿を見せることが少なくなり、加えて心臓の病を患った彼は敗戦直後にこの世を去った。
「私には出来ない」
「……陛下?」
譫言のように呟いていた。助けてほしいと、せがんでいた。誰にも言えずに、奥底に澱み溜まっていたものが溢れそうになる。
かつて友好国であったクレムティスを、敵国として認めたのは、自国を焦土と変貌させうるあの”兵器”が存在したからだった。
だから、戦った。我が国の民を守るために。だがそれは本当に正しかったのか。
ティムロアの精神状態は崩壊寸前で、彼は自らの部下を自分の手で斬り殺すこともあったようだった。
その手が、いずれこちらに及ぶことがあるのかもしれないと。だから―――
「陛下、大丈夫ですか。顔色があまりよろしくないようですが」
「……トランクィル、少し外してくれ」
「左様ですか。今後、トネールへの書簡は如何なさいますか」
「追って伝える。今は、今は一人にさせてくれ」
閉め切った窓からは何も見えない。どうすれば良いのか。どうすれば良いのかと、延々と先送りしてきた今でもなお、彼は倒懸の炎に包まれていた。
何を聞けば。何を見れば。何をして王となるのか。
信仰の国と伎倆の国。その両国の間には文化と、利益と、疑念が大きく鎌首をもたげていた。
いや、そもそも―――
「王で在りたくない私は一体どうすれば……」
胸が痛む。痺れるような感覚が身体中に走る。
「おぉ、神よ。あなたは何故、私にこのような試練を与え給うたのか―――」
机の上に置かれた置き去りの果実は、生きることを忘れているかのように動かない。 アルメンはそれに郷愁と憂虞の念を感じた。
天使が結晶化したものとでも言うべきそれは、植物としての機能が無く、物体としての輪郭が無い。
彼女はこれに似たものを、「見たことがあったこと」を取り戻した。
それは、彼女がまだ、有翼の天使であった時の事。
怒りや憎しみ、悲しみの程遠い場所にあったその時のことを至福と言うのかと問われれば、そうではないと今では答えよう。
それは在るべき場所に在るだけ。神の摂理としての天使は、大樹の木陰でその恵みを眼にした。
生命。種子を秘めたその果肉は可能性となり、その生命を祝福する。その行く手が様々な結末を実らせた時、果実は空から落ちていく。
「……ギフト、か」
それは魂となり、人の肉体を満たした。
私が私である理由。この果実はその対極の―――
「……っ」
そこから先を思い出そうとすると、頭がひどく傷んだ。
顔をしかめ、その歯痒さに思わず机に拳を打ち付ける。果実はそれでもその輪郭を不明瞭なまま、置き去りにされていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
トリムが家に戻ると、珍しくフロワが家にいた。どことなく、落ち着かない様子を見せている彼女のことが気になりつつも、トリムはキッチンへと向かっていった。
リビングにはフロワが見ているTVのニュースキャスターの声と、キッチンにいるトリムが包丁を使う音で満ちていた。
程なくして、キッチンからカットされたリンゴを持ったトリムがやってくる。
それをテーブルの上に置いた彼女はソファに身を預け、隣りにいる彼女のように黙ってTVを眺め始めた。
パワーとの戦闘から約二週間が経った。これまでに”兆し”発見の報告は無く、トリムは特にやることもなかったが、フロワの方は度々アルメンから呼び出され、調査に出向いているようだった。帰ってくるのもかなり遅く、こうして二人でリビングにいるのは久しぶりのことだった。
「あ」
「お?」
突然、隣りにいたフロワが声を上げる。彼女はこちらに視線を向けて、言う。
「そう言えば、マスターがあなたに聞きたいことがあると言っていましたよ」
「何?」
「あなたの使っている磁性弾とキューブのことで」
「えっ」
「バクーラさんから報告があったそうで」
「うそ、あいつもしかして気づいてたの……?」
途端に顔をそらし、何やらぶつぶつ言い始める彼女の背中に、フロワは話を続ける。
「あの、もしこちらに解析する時間をくれるのなら予備を作れると言っていたそうです」
「そう、スペアを」」
トリムはどこかホッとした様子で、テーブルの上のリンゴに手をつけた。
「スペアはいらないわ、使えないもの」
「そうなんですか? 弾は消耗品ですから作ってもらった方が良いと思うんですけど」
「んー、ちょっと訳ありでね。申し訳がないけど、大丈夫って伝えておいて」
「そう、ですか」
フロワはそう答えると、再びTVへと視線を戻した。
先ほどからいつもと様子の違う彼女のことが気になりつつも、視線を移したトリムは、その原因を視線の先に発見した。
この前までアルストロメリアが活けてあった花瓶、そこにはフリージアが活けてあった。
”ずいぶんと回りくどいことを”
トリムは彼女のいじらしさと、不器用なその表現に少し心が暖かくなるのを感じた。
夏の盛りも越え、空はより高く見えるようになってきた。
もう少しで、秋がやってくる。彼女は今晩のメニューを考えながら、リンゴをまた一つ、手に取った。
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