第45話 「天使なるもの」(丁)

「瘧が生まれ、世界は速やかに滅び始める」

 声の主がどのような感情でそれを言っているのかは分からない。声は冷淡に、ただ目の前にある現実を写生したような雰囲気さえ感じられた。

「滅ぶって……」

「お前ら、っていうとお前は純粋な人じゃねぇか。弱っちい人類からすれば一大事だが、俺らから見ればめっちゃたまに来る自然災害みたいなもんだ」

「どちらにせよ、瘧を遷された側はたまったもんじゃないわい」

「待って、今までにそんなことがあったっての?」

「ある。お前たちの時代より遥かな太古の時において均衡が破られたことがあった」

「お前らの言う、先史時代は準備期間だ。基本的に一サイクルは生で始まり、死で終わる」

「ある時代において、一度人の均衡が崩れた時があった。それは人類が全員異なる基盤を持ちながら、同じ言語を話しているという世界だった」

「同じ言葉って、私達もそうだけど……」

「案ずるな。そもそもの母数が違う。今のお前たちの何十倍という数の人間がいたのだ」

「何十倍って、要するに最低でも百億人がいたってこと!?」

「そうだ。それだけの数でありながら、人々は皆、同じ言葉を使用していた。表面上は上手く行っていたのだがな、その言葉の基盤が耐えられなかった。魂の濃度が高すぎたのだ。結果として人類の九割の魂を希釈しなければならなくなった」

 希釈とは、どういうことだろう。字面だけで捉えれば、薄れさせるようなニュアンスだが、魂を薄れさせるとなると……

「生きながら、動かなくなったってこと?」

「……そうだ」

「―――ありえない」

 トリムは姿のない声の主を睨み付けるようにしながら、そう吐き捨てた。

 生きている人間から、意識だけを取り出すということがどんなに酷いことなのかは想像に難くない。普通の生活をしていた人々が電池を抜かれるように動かなくなった世界。彼らの最期には恐らく、怒りや、悲しみ、許す言葉さえもなかったのだろう。


「そう責めんでくれまいか」

「じゃあ正しい行いだったって言うの?」

「我々からすれば、そうだった。仕方がなかったのだ」

「何が仕方ないのよ」

「寿命で死ぬのと、瘧で滅ぶのとは訳が違う。実際、その大地には疫神まで顕現してしまったのだ。世界そのものが終わりかけた。流転を続けさせるためには、そうするしかなかったのだ」

「……俺らだって、そんなことはしたくなかった」

「あら、さっきは自然災害がなんたら言ってたくせに」

「それは、その、言葉のあやってやつだ。ちょっとごっちゃにして話しちまっただけだ」

「……そう。要するに、自然に死ぬのは次のサイクルとやらに繋がるけど、瘧で滅ぶのは世界が、何もかもが終わるってわけね」

「そういうことだ」

「聞きたいんだけど、それを人類にどうにかして伝えようと思ったことは無かったの?」

「あるわけなかろうて。そんなことを言ったところで信じ続ける者はおるまい。いや、正確に言えば、皆忘れてしまうのじゃ」

「それに、原則、天使は幼い人類を育てることしかしない。一度歩き始めたらあとは勝手にやってもらうのがルールなんだよ」

「放任主義って訳ね。もう一つ聞きたいんだけど、なぜ今そういうルールを私に話してるの? 私が人間じゃないからってこと?」

「今回の瘧はお前にしか治せないものと判断したからだ」

「どういうこと?」

 トリムの問いに、声の主は静かに語り始めた。事は彼女の思ったよりも深刻な状態にあった。

「何度も言うように、瘧とは魂の不均衡が原因で現れる。今回現れたのは我ら天使の領域。今までで一度も現れたことがない、現れるはずのない場所だった」

「セラフィムが原因か……」

「そうだ。光に影を塗抹するような真似をしたセラフィムの蛮行により、天使の魂の均衡は崩壊した」

「封じられていたクリフォトへの道をこじ開け、挙句の果てには天使の残骸を遣わしよった」

「まさか、私達が戦ってたのって」

「あぁ。クリフォトに廃棄された天使だったモノたちだ」

「あなた達の力でどうにもならないの?」

「……すまない」

「一度形を得たクリフォトの天使には力が及ばんのじゃ」

「そうじゃなくても俺ら家を追い出されちまってるからな力は半分以下だ」

「現状、天使に割り振られている魂の総量が十であるとするなら、ここにいる我ら全員合わせても二割いくかどうかといったところだ」

「じゃあ残りの八割は……」

「八割どころじゃない。セラフィムは魂の収容力の限界を押し上げている。このまま行けばあやつは種という壁すら超え、神にも届こうぞ」

「そんな……」

「そう絶望的な顔をするな。今ならまだ間に合うはずじゃ」

 そう言われたところでトリムの不安は晴れなかった。人間ごときの創り上げた武器と、槍一本で神にも等しい相手に立ち向かえと言われたのだ。それで戦意高揚するはずがない。

「セラフィムはどこにいるか分からない」

「あんた達、本当に励まそうとしてるの」

「それは魂の容量を急激に増加させたことによる副作用のようなもの。今のセラフィムは肉体がなければ存在できないほど不安定な状態にある」

「私と同じような状態ってこと?」

「厳密に言えば違うが、概ねそのような認識で良い。天使とは霊的被造物だ。肉体は枷にしかなり得ない。天使本来の権能を発揮するには肉体は邪魔になる。一度肉体と結びついた魂は固着し、運命を共にする」

「つまり、人間状態のセラフィムを倒せばすべて解決するってことなのね」

「理解が早くて助かる」

 成り行きで始まった天使討伐が世界救済に至るなんて誰が思うだろう。普通に生きていれば、そんなことにはならないはずだ。

「結局の所、私は普通じゃないってことか……」

 そう言った矢先、突風が彼女に吹き付けた。花は大きく身体を揺らし、世界は明滅を始めた。

「いかん、時間をかけすぎたか」

「ちょっと、何が起きてるの!?」

「お前が元の世界に戻る時が来たのだ」

「元の世界……」

 その言葉の指すものが、自分の右手から心へと這い登ってくるのを彼女は感じた。

フロワを、フロワを貫いたあの感覚が身体を駆け抜ける。

「娘!あのフロワという娘に関しては気にするな!」

「は、何を勝手なことを―――」

「お前は時を戻したのだ。ここはそのセーフティー。無闇やたらにそんなことをされては困るからのぅ」

 明滅は激しくなりいよいよ目を開けていられなくなった

「一個や二個の物なら構わんが、生命まで戻そうとするのは普通なら不味いっちゅう訳だが今は緊急事態だ。フロワちゃんは生き返らせてやる!」

 全身を突き抜ける突風が霧散する。耳にはあの声だけが朧に鳴り響いていた。

「―――を連れて行け。詳しいことはそやつに聞―――」

 その声すらも無くなって、身体に伝わる感覚という感覚も消えた後、目を開いたトリムの前には、崩折れた廃ビルの姿があった。

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