第44話 「天使なるもの」(丙)
鼻をくすぐる甘い香り。風がそよいで髪が頬を撫ぜる。目を覚ましたトリムがいたのは、人々が夢見る天国の花園のような場所だった。
上半身を起こした彼女は、自分の手で花を抑えつけていたことに気がついて、手を退けた。花は何事もなかったかのように凛とした立ち姿を見せた。
トリムは周りに咲いていた花々を見たが、そのいずれもが彼女の知らない花だった。
「目を覚ましたか」
「そのようで」
「全く、いつまで横になっておるのか」
「仕方がないだろ、こいつ弱そうだし」
突如、四方八方から声が飛び交ったので彼女は驚いて立ち上がった。彼女は辺りを見回したが、そこに人の姿は見当たらない。それをせせら笑う声が聞こえた後、音は再び、風と共に訪れた。
「天使の子よ、ちと話を聞いてくれぃ」
「……何なの、これ」
「おいおい頼むよー、しゃんとしてくれよー」
「これ、少し黙っておれチビ助」
「誰がチビじゃハゲぇ!」
「わしが黙っててって言ったら静かにせんか、ばかっ」
戸惑うトリムを尻目にあーだこーだと言い争いをする声だけが辺りに響き渡る。うららかな日和に見目麗しい花々と俗っぽい口喧嘩。
天上の如き美しさを誇るこの景色を複雑な気持ちで眺めることしか出来ないトリムは嵐が過ぎるのを待った。
地平線は彼方に、景色を遮るものは何も無く、色彩らしきものが見れるのもこの場所だけ。世界はこの場所のためにあるようにも見えて、ここが色々なものに取り残された場所のようにも感じられる寂寥感があった。
花を踏み鳴らす音もなければ、誰かがやってくる気配もない。このままいつまでの時間が過ぎ去っていくかのように何ひとつとして変わらない景色。気がつけば煩い声も無くなっていて、トリムは一人になっていた。
意識はハッキリある。肌に感じる感覚や、座っている地面の温みも分かるが、どこまでも私という存在が遠く感じられる。私の身体から抜け出した私がいるようで、それが縮こまった世界から解き放たれたような感覚に陥る。
「だめ、戻っておいで」
その一言が私を掠めて消えていく。
どうして。こんなにも気持ちの良い瞬間は初めてなのに。このまま、どこまでも行けそうなのに。
輪郭は徐々に明瞭さを失っていって、空と大地の境界はお互いに溶け合っていく。
「いかん、こやつ集中力がないぞ」
「おおおお、やばいぞまずいぞ消えちまうぞ!?」
「そのようで」
「……ふむ」
「戻っておいで」
その一言に混ざるように何かを聞いたような気がした。離れゆく身体との距離が少し縮まって、私は少しだけ自分を思い出し始める。
「さぁ、意識を開いて」
額を優しく触れられるような感覚が一瞬だけ感じられた後、トリムは再び花園へと戻っていた。
「戻ったようだな」
「あぶねー、マジで人間やめるところだったぞこいつ」
「そのようで」
「これはさっさと話を進めた方が良さそうじゃな。娘よ、わしらの話をよく聞くんじゃぞ」
トリムがそれに頷くと、座り通しだったお尻が痛くなるのを感じた。
「とはいえ、話が込み入り過ぎてどう説明すべきか、困っちゃうのぉ」
「娘よ、お前が質問しろ。我らはすべてを見てはいるが、お前が何を疑問に思っているかは測り知れない」
「おうおう、それがええ、それがええ」
なるほど、すべてを見たと来たか。それならばすべて答えてもらいましょう。
「あなた達は何者?」
「天使だ」
「正確に言うのなら前任者」
「あなた達の役割は?」
「困ってるときは助けたり、やべーことしたら叱ったり。親みたいなもんだな」
「なにそれ」
思わず鼻で笑ってしまった彼女は、その声たちに問いかける。
「天使ってそんなんなの?」
「うむ、そんなんじゃのぉ。人の子らが夢見るような存在は、少し違う」
「お前たちの時代より遥か前のサイクルにおいては、私達が直接お前たちを助けることはあった」
「今は、違うの?」
「変わらんよ。ただ、お前たちはもう一人で歩けるようになった。時々癇癪こそ起こすものの、充分、巣立てるくらいにはなったろう」
「言っただろ、親みたいなものだって。俺たちははなからそういうもんなんだよ」
「そのようで」
「ふーん。じゃあここはなんなの?」
「うーん、なんだろ、空き地?」
「もっとかっこええ名前にせんかい」
「事実だ。私達は管理者としての立場を追われ、ここに落ち延びたのだ」
「それは何故?」
「何故も何も、負けたのだ。クリフォトの亡者どもを引き連れてきたセラフィムにな」
「セラフィム……」
どこかで聞いたことがあるような気がする名だった。だけど、いつ聞いた話だったか。
「セラフィムは事もあろうに、セフィロトの天使へ叛逆したのだ。位階秩序もそれによって崩壊し始めた」
「ちょっと何言ってるかわからないです」
「なんでわかんねぇんだよ」
「難しい単語が多すぎなのよ」
トリムにしてみれば聞いたことのない単語ばかりでどのようなものなのかが全く想像つかない。それについて講釈をたれられてもこちらとしてはただ眠くなるだけだ。
「はーぁ」
両腕を空へと伸ばした彼女はその体勢のまま地面に寝転がる。
「ほんと、集中力のないやっちゃのぉ」
「分かりやすく説明してよ」
「うむ。端的に言えば、セフィロトとは今いる世界。お前たちが暮らす世界の名だ」
「ほう」
「セラフィムはその世界の運行と人類の教育を任された天使たちの一番偉い存在だ」
「それが叛逆したと」
「そうだ。クリフォトはセフィロトの影。言うなれば、そこまで育つのに使われたモノが廃棄されたゴミ溜めのような場所だ」
「じゃあ何、あなた達はゴミ溜めにいたネズミに噛まれて泣く泣く逃げ出したっての?」
「そのようで」
「いやそのようでじゃねぇよ、違ぇだろ」
「そのようで」
「こいつ……」
天使の前任者だというが本当にそうなんだろうか。幾星霜の時を経て人類を守り続けてきた存在とは思えないような威厳のなさが声に滲み出ているのが二名ほどいる気がするが。
「これは力の問題ではない。均衡の問題だ」
「バランスが崩れるってこと?」
「そうだ。我々を総称して天使と呼ぶ訳だが、それだけではこの世界には存在できぬ。神の下に我々が存在し、その下に人類がいて初めてこの世界は成り立つのだ」
「三位一体ってやつか」
「そうだ。それぞれの均霑を守るためには、一定水準の魂が必要になる。それは尠くても不味いし、夥しい数で溢れても不味い」
それはどこか、自然の理と似ていた。
環境には一定の容量というものがある。野に生きる動物、植物はこの容量の中でお互いに殺し殺され、その種を後の世代に遺すことを目的に生きている。それは物理的な広さの問題だったり、餌量の問題だったりする訳だ。
それを生き抜くために彼らは長い長い年月をかけて工夫をする。他の植物が生えてこないように化学物質を放出するのもいれば、自分より大きな存在の陰に潜んでおこぼれを貰うような共生関係にあるものもいる。
相利共生、捕食、利他行動、片利共生、片害作用などなど。それらはすべて、「生きる」ための在り方だ。
「基本的に、セフィロトの世界にクリフォトの存在がまろび出ることはあり得ない。そうなっては均衡が保たれないからだ」
「でもそうなっちゃったんでしょ? そうなると、どうなるのよ」
「瘧が生まれ、世界は速やかに滅び始める」
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