第16話 欲求
イブの、喉がこくり、こくりと動くのが分かる。
フーフーと言う苦しそうな呼吸が、イブの鼻から漏れて、それらを飲み下した後、イブは僕の指から口を離した。
僕は、隙間を与えない。少し血の味がするその口にキスをする。
――耐え切れないほどの欲求が僕の身体を突き動かそうとしていた。
彼女の心音を胸に感じ、体温のあたたかみが伝わってくるたびに、絶え間なくその衝動は僕の体の中で暴れまわった。
イブの中に入りたい。
……必死にその欲求を消そうとして、僕はそれを理性で押さえ込んだ。
イブを助けることになろうと、結果的に自分を危険に晒すことになるのだろうと、自分の心は裏切れない。
唇の感触は柔らかくて、その内側はぬめっている。
僕らは求め合うようにして、絡み合った。
口から口へ。
唾液で濡れた僕の舌は、彼女の渇きを癒やすため、緩やかに動き続ける。
僕の男性の部分は静まらず、苦しかった。
呼吸も、胸の鼓動も、何もかもが熱い。
「浩介……、浩介……ッ」
イブが、苦しそうに僕の名前を呼び、身を震わせている。
でも、それでも一線は越えない。
僕らはしばらくそうした後、離れた。
離れた今も、彼女に触れていた身体の全てがイブを欲しがっている。
それは変えようの無い事実であり、苦しんでいるイブに何もしてあげられないと言う自分に、罪悪感すら感じてしまっていた。
「……少し、良くなった」
息を整えて数秒。イブはそう言うと、目を閉じた。
「浩介。お前が私と性交渉を行わない理由が全く分からない。どう思っているかも、何も」
「大切だよ」
僕は言った。
「少し悔しいし、認めたくないけど。イブのことは大切に想ってる」
「……そうか」
僕らはそれ以外の会話が出来なかった。
イブを抱き起すとそのまま無言で家に帰り、時計を見ると時間は10時を回っていた。
起きていた両親に「散歩してた」と伝え、部屋に戻る。
日曜日なので学校は無い。
スマートフォンを見たが、カノンからの連絡はまだ無い。
「良いさ。どっちにしろ、今のままじゃ会えないし」
「何か言ったか? 浩介」
「何でもない。ただの独り言だよ」
イブに悟られたくない。
でも、今になって自分でも驚いていた。
どうしてこんなにカノンのことを想えるのだろうか。
思えば、何故、彼女をあの電車の中で助けたのだろう。
僕は、女性恐怖症のような人間だった。
助けたのであれば、関わり合うのは必然だったはずなのに、それでも、僕は助けてしまった。
いや、分かっている。
電車の中で、嬲られていたあの姿を見て、黙って見ていることなんて出来なかったのだ。
きっと、身勝手な正義感だとか、そう言うものだ。
結局のところ、僕は後先のことを考えずに軽はずみに行動すると言う人間なのだと思う。
今回のことで、なんとなく自覚できた。
しかし、カノンと出会わなければ、とっくにイブとしてしまっていたと思うと、少しだけ複雑な気分になる。
イブの誘惑は、正直に言うと苦しいくらいに耐え難い。
そのまま堕ちて行ってしまいそうになる。
そうすればイブを助けることにもなるし、回復したイブなら、今後も問題なく僕を守ってくれるだろう。
でも、カノンのことを考えると、イブと触れている時よりも、ずっと胸が苦しいのだ。
……明日から学校だ。
イブは、どうするのだろう。
いや、イブのことだ。
学校に着いてくるとは思うけれど。
その時、僕のスマートフォンがぶるぶると震えた。
RINEのメッセージだ。
僕は飛びつくようにして端末を拾う。
『上谷さん。返信遅れてごめんなさい。帰って来たんですね。おかえりなさい。元気を出して、と言うのは、無理ですよね。すいません。大切な人が亡くなったんですから、今は悲しんであげてください。たくさん泣いて、元気が出てからで良いので、また連絡くださいね。いつでも良いです。待ってます』
読んでから、祖母が死んだことさえ忘れそうになっていた自分に気づいた。
『お前をおびき出すために、祖母を殺した』
殺された。殺されたと言うのに。
「浩介、どうした?」
「いや、どうもしないよ」
僕はスマートフォンの画面を伏せた。
どうもしない。
ただ、自分が変わっていってしまうようで、怖い。
イブと出会ったあの日以来。
僕は自分のことばかりを考えている気がする。
とにかく、明日から学校だ。
平和に過ごせることを、今は祈りたい。
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