第8話 敵
「浩介。惑わされるな。いかに姿が人間に見えようと、人とは全く異質なものだと言うことを心にとどめろ」
彼女はそう言ったが、それでも、僕には人間だとしか思えなかった。
だが、それらは僕の目の前であっさりと変容を遂げる。
男の髪の毛が逆立ち始め、体つきが変わっていった。
目つきが鋭く、瞳孔が狭い。
「奴の目をまともに見るな! 慣れてなければ、意識を持っていかれるぞ」
「そ、そんなこと言ったって……」
目が離せなかった。
見ているうちに、男の首がグググと持ち上がり、もう、見るからに人間ではない。
異形の存在に思えた。
歪んだ口で、男が言う。
「抵抗するな。その個体をこちらに渡せ」
人の言葉を話しているのに、人間の声に聞こえなかった。
なんとも形容しがたい、不気味な響きを持った音で、男はなおも続ける。
「手負いの貴様に勝ち目はないぞ。全力で逃げることだけに集中するべきだ」
僕は彼女を見た。
「手負い?」
「問題ない」
だが、そう言った彼女はじっとりと汗をかいていた。
思えば彼女はこう言っていたではないか。
『私はもう、何日も浩介を守っているんだよ』と。
「手負いって、どこか、怪我を?」
「心配するなと言っている。この程度の相手なら問題ない。今、分かった。さっきの犬はこいつがけしかけたのだ。くだらない小細工を仕掛ける奴だが、個体としては未熟で若すぎる」
その瞬間、彼女の周囲の空気が僅かに動いた。
質量の存在感。
目には見えないが、おそらく、犬に襲われた時に出した、透明の触手を出したのだろう。
そして、男も同様だった。
こちらからは見えないが、相手の周囲がぶれて見える。
と、すぐさま力と力のぶつかり合う音が響いた。
空気が避けるような音と共に、打撃の音が聞こえてくる。
多分、伸ばした見えない腕で殴り合っているのだ。
音と、空気が動いた気配だけしか僕は分らなかったけれど、それらは激しいスピードで叩きあい、お互いの体に致命傷を負わせようと動いているらしい。
彼女の動きは、まるで踊っているようだった。
彼女のいる付近の地面に、いくつもの攻撃の痕跡が叩きつけられたようにして出現し、それが攻撃をかわしている動きだと言うのが分かる。
そうしながら、男と一定の距離を保ちつつ、そして……
彼女は一気に距離を詰めると、振りかぶって体を回転させた。
何かが砕ける音と共に、男の首があり得ない方向へねじ切られて、飛ぶ。
そこから噴出した血は青かった。
男の体は崩れ落ちて、それから、見えない腕に穴をあけられ、それからバラバラに引き裂かれる。
そして、僕は彼女の触手を視覚で捉えた。
敵の青い血液が、それらの輪郭を露わにしたのだ。
それらは細いもの、太いもの、形状も様々で、手のように指のあるものから、刃物のようなものまであった。
……いや、形は変形するらしい。
それらは血を払い、細分化しながら縮小し、彼女の元へ戻る。
敵の青い血は地面に流れ落ちて、蒸気のような煙を僅かに立ち上げながら、すぐに乾いてしまった。
もう、触手は見えない。
「勝ったの、か?」
「ああ。こちらへの近づき方から予想はしていたが、攻撃パターンが単調な奴で助かった。犬と一緒で、相手の力量を測ることも出来ない」
彼女はこちらを見ると目を細める。
「言っただろう? 心配ないと」
しかし、じっとりとした汗が彼女のワンピースを濡らしていた。
手負いと言うのは、いったいどこを怪我をしているのだろう。
……もしかすると、僕には見えない場所なのかもしれないと、そう思った矢先、彼女が僕の胸に額をつけて、それから言った。
「少し、疲れた。浩介、体液を補充したい」
「体液?」
彼女は見上げると同時に、強引に僕の首を掴み、顔を引きずり下ろしてきた。
キス。
まるで飢餓に飢えた生物の、食事のような口づけ。
舌が僕の口の中をまさぐり、その苦しいほどの貪欲さに息が乱れた。
お互いの呼吸が交じり合って、甘い余韻を残す。
やがて唇は離れたが、彼女は僕の首を放さず、至近距離で言葉をささやいた。
「浩介。私はお前の体液無しでは生きてはいけなんだ。我々の身体は、人間のメスと変わらない。生殖器も完全に擬態している生物で、そこから君の体液を吸収できる」
彼女が、じっとりとした目をこちらへ向ける。
「交尾は可能なんだ。私に君の精液をくれないか?」
「交尾って、そんな……」
僕は彼女を引き剥がしにかかった。
「分からないか? まぐわいだよ。お前に分かりやすく言うと、セックスだ。言っただろう? 私の糧になる体液は、唾液よりも精液の方が、ずっと効率が良い」
「……嫌だ」
僕は拒絶した。
「僕はまだ、あんたを許してない」
「許すだと?」
彼女が少し苦しそうに、それでもイタズラな視線で僕を見た。
「私にはお前の言っていることが分からないが、もはやそんなことを言っている場合でもないのだ。私は負傷している。浩介の目には見えない部分だ。回復するのに、もっとたくさんの体液が必要だ。このままでは守りきれない」
「守れたじゃないか。今みたいに」
「今のは運が良かった。もっと成長した個体が相手だったら、私はお前を守れなかった」
彼女の息がかかる。
身体が熱い。
密着している彼女の身体も、おそらくは、僕の身体も。
「浩介。我慢するな。私の身体は、人間のオスの性欲を刺激するように出来ている」
「嫌だ」
僕は意を決して彼女の唇を奪う。
自分の唾液を舌に絡めて、彼女の口内に移して、それから彼女を抱きしめた。
彼女はすぐに身を任せて来て、それから僕の舌に、自分の舌を触れさせる。
こくりと鳴った、彼女の喉。
呼吸が苦しくなり、僕は口を離した。
「キスだけじゃ、ダメかよ」
「ダメだ。唾液だけでは回復に時間がかかりすぎるし、最悪は傷も完治しないかもしれない」
それでも僕の答えはノーだ。
僕は、本来あるべき感情を取り戻したのだ。
誰かに特別な想いを抱くということを。人を、好きになると言うことを。
だから、そういう行為は……もしするなら、好きな人とだけしたい。
いくら綺麗な女の子だろうと、僕の身体が反応してようと、好きな人以外とそれは出来ない。したくない。
「……まさか、くだらないことで悩んでいるのか? 人間の道徳観なんて知らん。生き残るために必要なことなんだ。難しいことなど考えず、私を抱け」
僕は首を横に振った。
「絶対に、嫌だ」
「そうか」
彼女は悲しそうにそう言うと、僕の身体をソッと抱きしめた。
「お前が拒むと言うのなら、強制はしない。私は君と協力関係でなければ生きられない」
「……驚いた。無理やり、その、力づくでされるのかと、思った」
彼女は僕の体を離して、細めた目で僕を見た。ふっとした笑み。
それすらも、とても色っぽく見えて、酷く困惑する。
「昔はそんなこともしていたさ。だが、失敗から学ぶことの出来る生物は人間だけじゃない。その関係は結果的に長く持たなかったよ」
「長く、持たなかった?」
「浩介が生まれるよりも昔の話だ。こうなれば、経験豊富な、もっと成熟した個体に襲われないことを願おう」
彼女はそう言うと、手の指を絡ませてきた。
「浩介、汗をずいぶんかいてるな。こうして肌を触れ合わせているだけでも、私は君の汗を吸収できる。抱きたくなったらいつでも良い。私の方は、準備は出来ている」
冷静にならないと、と思った。
いくら手が温かくても、僕に触れているのは人間じゃない。
そっくりなのは外見だけで、人間とは全く異なる生き物で。
……でも、落ち着くなんて無理だった。
思えば、今まで女の子を避けていた。
こんなにまで密着することなんて一度もないのだ。
耐性がない。いや、こいつは人間じゃないけれど。
気が付けば僕の顔は真っ赤になっていた。
「とりあえず、僕は家に帰るよ」
「そうか。なら、私も行こう。姿を隠している必要は、もはやなくなったからな」
「……え?」
「場所は知っている。お前は気にせずに歩け」
彼女はそう言うと、絡ませていた指をほどいた。
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