第7話 解呪
他人の舌の感触が、自分の口の中にある。
チロリと僕の口の中を探って、唾液を絡め取ったそれは、些細に荒ぶった僕の呼吸を引き連れて顔を離れた。
それから彼女は興奮したように顔を紅潮させ、それから言うのだ。
「さっきは邪魔が入ったな。もう一度だ。枷を、解く。私の目を見ろ、浩介」
そう囁いてから、僕の目を、今度は捉えるようにしてジッと覗き込む。
目が、離せない。
「……枷、って、なんだよ」
「浩介。私の種は、個体に合った性質を持つ人間の体液を定期的に摂取しなければ生きていけない種族だ。摂取しなければ10日ほどで死んでしまう。私も例外無く、人間の体液を摂取しなければ生きていけない。だから、これからは君の体液をもらう」
「何を言って」
その時、僕の胸の中で何かが熱く、とても熱く囁き出した。
強烈な切なさだった。
彼女の囁く声が、不思議な音に響いて、聞こえてくる。
「浩介が適齢期になった時につがいのメスがいては何かと不都合だった。だから、浩介が子供のうちに枷をかけさせてもらったんだよ。異性を意識すると、心に酷いストレスがかかる。分かりやすく言うと、強力な暗示だ。人間の言葉で言うと、呪いみたいなものだな」
呪い?
そう思った、次のその瞬間。
僕の心は、目覚めた。
強烈に、異性への意識が変わり始めたのだ。
思えば、彼女が接近してきても、キスをしてきても、嫌悪感はまるで感じなかった。
僕は自分の心の中で、一人の女の子が煌々と輝きだすのを感じた。
――僕は目を見開く。
7月からの記憶が、どっと僕の頭の中を走り回っていた。
電車の中で掴んだ震える手。
冷房。
僅かに冷えた体温。
必死な声。
あんなにぞんざいに扱ってしまったと言うのに、彼女はいつもニコニコと、嬉しそうに笑っていた。
『気をつけてね、上谷さん』
カノン……!
名前を思った瞬間、目から涙があふれそうになった。
知っていたはずの感情が鮮やかに色を取り戻し、僕の心の中で輝きだす。
それから強い罪悪感と、それから彼女への愛しさで、胸がいっぱいになった。
僕は、バカだ。
あんなにも酷い嫌悪感に襲われて、気が狂いそうなほど彼女の存在に怯えていたのは、彼女のことを、強く意識していたからなのだ。
きっと、彼女を傷つけた。
悲しんで欲しくないと思った、その想いの意味は、これだったのだ。
初めて知る感情。
だけど、確信していた。
ああ、なんてことだろうか。
僕は、カノンのことが。
あの子のことが、とても好きなんだ。
好きだったんだ。
……何でだよ。僕が女の子を好きになれなかったのは、こいつに何かされてたからだったなんて。
そんなの、酷いじゃないか、どうして、こんな。
「さて、私が常に必要としている君の体液だが、今から言う順に、私の大きな糧となる。汗、唾液、血液、精液」
「ま、待てよ。僕の体液が無ければ死ぬって、今までどうしてたんだよ」
彼女が目を細めた。
「生きていたさ。他の人間のオスのところで」
他のオス。他の人間。
「そのオスが死んだから、次は君と言うことさ。何年も前に候補に上げておいたからな」
「ふざ、けるな。人を、なんだと思ってるんだ……!」
僕は、彼女の小さな身体めがけて、腕を振り上げて。
それでも躊躇して、止めた。
「賢明な判断だな。もし私の肌に傷をつけるようなことをするようだったら、その腕の一本くらいは折らせてもらっていた」
潰れた犬の頭がよぎる。
ゾッとした。
なんで、こんなことを平気で。
「……信じるよ。君が言ったこと。全部、信じるしかない。でも、僕は言いなりになんかなりたくない」
「浩介。残念だがもはや手遅れだ。我々の敵。私の種族と適合する人間を標的にして捕食する種族が、すでにこの町に入った。君は狙われている」
言葉を失う。
「言っただろ、浩介。お前を守りに来た。私が生きるのに必要な、お前を」
その時、遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。
……なんだ? 町で、何が起きて。
「どうやら浩介を探そうとして何か騒ぎを起こしたらしいな」
彼女はそう言うと、町の方を向く。
「すぐに戦いになるぞ。覚悟を決めておけ」
「嫌だ……! 僕は嫌だ!」
もう限界だった。
この場所から離れて、どこか遠くに逃げなければ……!
……だが、振り向こうとしたその瞬間、突如として僕の周囲を衝撃が襲った。
跳ね上がる地面。彼女の首元から伸びる見えない腕だ。
それが足下の地面を叩いたのだ。
「私から離れて、逃げ出そうなどと思わないことだ。その気になれば浩介の手足を握り潰して、全く動けない状態にして連れ去ることも出来る」
彼女が目を細める。
その顔はもう、悪意そのものにしか感じれない。
「だが、可能ならばそれは避けたい。奴らと戦う時に浩介が動けない状態だと、守りきれないことがあるからだ。前のオスは、交通事故で足を怪我していて上手く逃げられなかった」
ざわざわと胸が騒ぐ。
「奴らは、私のように人に擬態している生物だが、我々ほど賢くない。人間社会のことを勉強しないからだ。どうにかして浩介の存在を知ったは良いが、住んでいる場所が分からずにいたんだろう。だが、知恵はある。適齢期になったであろう浩介をおびき出すために、お前の祖母を殺した」
「そんな……」
なら、僕のおばあちゃんは、そんなことのために死んだと言うのか。
「私はもう、何日間も君を守っている。君がこの町に来てから、ずっとな」
話はそこまでだった。
こちらへ近寄ってくる気配を、僕までもが感じている。
「若い個体だな。気配も殺さず、わざわざ正面から来るようだぞ」
林を掻き分ける音。
彼女の首元から、見えない腕が何本も伸びる。臨戦態勢だ。
目を細めて彼女は笑う。
「奴らは生きたままお前を捕食するために、致命傷は決してお前に与えない。だが、生命活動に支障の無い部分は平気で破壊しにかかってくるぞ。私のそばから決して離れるな」
どうして、こんなことに。
「浩介。私はお前を裏切らない。守りきると誓おう。浩介以外に私と体質が適合している人間の候補は、みんな捕食されてしまった。他の人間を探している時間は私には無い。我々は共生関係にある。浩介がいなければ私は生きてはいけないし、私がいなければ、浩介は捕食されてしまう。お互いにいなくてはならない存在なのだ」
カノン。僕は再び君に会うことが出来るだろうか。
また、君と一緒に歩くことが出来るだろうか。
「来るぞ」
何かが弾ける音が聞こえた。
木々がゆれ、茂みから強烈な気配が現れる。
知らずに身体が震えた。
反射的に身体がビクつき、身構えさせる。
思わず逃げ出したくなるような圧迫感。
さっきの犬とは比べものにならないプレッシャー。
……これが、僕が生まれて始めて感じた殺気だった。
完全にこちらを殺すという、強い意志。
だが、そんな殺気を放ちながら現れたのは、人間だった。
人間の、成人男性に見えた。
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