第6話 邂逅
〇
神社は記憶の中の物よりも、ずっとボロボロだった。
僕は塗装のはげ落ちている鳥居をくぐり、敷地の中を歩き回る。
ここは何を祀っていたのだろうか。
まるで見当もつかないけれど、今の僕にとって、その疑問は些細な興味でしかない。
「あのお姉さん。ここに来れば会えるかも、なんて思ってたけど」
ひとり、呟いた。
ここまで歩いているうちに『誰かに見はられている』と言った不気味な感覚は幾分か弱まり、今では寂しくなっている自分がいる。
「この町では、いつも僕は独りだ。いないんだよな。僕のことを知っている人が」
――その時、風が吹いて。
それがあまりにも強い風で、僕は思わず振り返った。
「私はお前を知っているぞ」
いつ、現れたのか、全く分からない。
白いワンピース。黒い髪。
女の子のシルエット。
それらは、僕の、ずっと近く。
敷地の中央――駈け出せば、触れられると言った距離に、忽然として姿を現していた。
「久しぶりだな、浩介」
「……え」
「私だ。覚えているだろう?」
もちろん、はっきりと覚えているし、すぐに気づいた。
7年前にキスをした、少しだけ年上の、あの女の子だと。
でも、だからこそ混乱し、言葉が出なかった。
姿がまるで変わっていない。
身長も、顔も、声も、何もかもが記憶にあったものと、まったく一緒なのだ。
「お、覚えているよ。でも、どうして、そんな、何も変わらないで」
「変わっていない? そうか。人間はいつもどうでも良いことにこだわるな」
「何を言って……? 人間は?」
「お前こそ何を言っている。忘れているのか? 私は人間では無いんだよ、浩介」
意味が分からない。
何かの冗談かとも思えたが、彼女を見れば見るほど、僕は混乱していた。
僕の背だけがずっと伸びていて、僕の頭のずっと下に、彼女の顔がある。
……頭が痛い。
僕は急に始まった頭痛にふらついて、その場に膝をついた。
「暗示が強すぎたか。記憶が混乱しているようだな」
彼女はそう言うと近づいて、僕の顔を覗き込む。
「私の目を見ろ。今、枷を解いてやる」
その時、周囲の木々がざわついた。
まるで、僕と彼女の再会を邪魔しようとでもいうように。
近くの茂みから、低い唸り声を発しながら現れた、一匹の生物。
犬だ。
僕は、7年前にエサをあげていた犬を思い出して、その犬に思い出の一片を見つけ出そうと目を凝らす。
だが、その犬は、思い出の中の犬とはまるで似つかない。
別の犬だ。
記憶通りなら、こんな大型ではなく、もっとずっと小さくて、色も白かった。
「……」
彼女は無言で僕と犬の間に立ち、それから犬に語りかける。
「随分と分かりやすい敵意だ。いったいお前はなんだ?」
……様子がおかしい。
その犬は、狂っているように見えた。
目は赤く腫れあがり、粘度の高いよだれがぐじゅるぐじゅると音を立てて、それらが剥き出しの鋭い歯の隙間から流れて落ちて、地面に水たまりを作っている。
何よりも不可思議なのが、犬であるにも関わらず、顔に増悪のような表情が見えているのだ。
「……後ろに下がれ、浩介」
犬は、彼女が声を発すると同時に走って来た。
歯をむき出しにして、真っ直ぐに、僕らの方に。
危ないと、そう思う間もなかった。
血が弾けて飛んで、赤い色が空にまき散らされる。
……一瞬。
何が起きたのか、全く分からなかった。
少女は、無傷なのだ。
「な、何が起きて」
僕は混乱する。
目の前で起きたことが、とても信じられない。
――破裂音がした。
助走をつけて飛び掛かった犬の頭部が空中で弾けて、その身体は地面に叩き落とされていたかのように落下した。
それが目の前で起きたすべてなのだけれど、やはり、意味が分からない。
彼女は何をした?
ふと見ると、彼女の周囲に赤くぬめった触手が蠢いている。
首元から大量に伸びたそれは無色透明で、犬の血液に触れた部分だけが、その輪郭を僅かに赤く見せていた。
「相手の力量も図らずに襲ってくるとはな」
彼女はそう言うと、こちらに振り返り、目を細めて笑うと、僕を見る。
周囲の触手はフルフルと震え、伝っている血液が地面に流れて落ちると、すぐにその輪郭は景色に溶け込んでしまった。
「安心しろ、浩介。犬は殺した」
「殺した?」
彼女の白い服に、点々と血のしぶきが模様をつけている。
「君が、やったのか?」
「そうだ。障害を排除した」
石ころが落ちていたので掃除しておいたと、そんな感じで彼女は言った。
犬は、動かない。
赤や黒の浮かんだ、生臭い水たまりの中に、その体は落ちている。
頭はやはり無い。
潰れかけた眼球が近くに転がり、緑色のぷるぷるとしたゼリー状の物や、桃色の柔らかそうな繊維に包まれた白い欠片も散らばっていて、僕は目を背けた。
「く、くそ! なんで、こんな!」
「何をそんなにうろたえている」
「殺すことは無いじゃないか! かわいそうだし、それに、こんな、残酷な」
「かわいそう?」
彼女は再び目を細めて、僕を見る。
「かわいそうとは、人間特有の感情だな。しかし、この状況で良くも言う。私にはとても理解できない」
「生き物を殺すことに、何の抵抗もないのかよ……!」
「牙を向いて襲い掛かって来たから排除した。噛まれて傷を負うとなれば、私はいつだってこうする」
淡々と紡がれた言葉は異様そのものだった。
絶対に、おかしい。普通じゃない。
僕はもう、耐えきれなかった。
「あ、あんた! いったい、なんなんだよ! どっからどう見たって人間なのに、排除だなんてそんな物の言い方……! それに、さっきの、透明な手みたいなのはなんなんだよ! 見た目だって7年前と変わって無いし、こんなのって……!」
彼女はずっと目を細めて、変わらずに笑っている。
まるで、混乱している僕の反応が楽しくてたまらないと言うように。
「私が何かだと? 種族の名前なんて興味は無い。私はこの地球上で生まれた、一種の野生生物だよ」
彼女の言葉を聞いて、酷く恐ろしいものを見ている気がした。
……彼女は、本当に笑っているのだろうか。
笑っているように見えるのに、どこか違和感があるのだ。
「ただ、一つ。私の目的を教えてやる。それは浩介。お前だ。私はお前を守りに来たんだ。お前は私と言う個体にとって、特別な存在だからな」
彼女はそう言うと、人間が楽しい時にするようにして、くっくと笑う。
悔しいことに、笑っている彼女はとても美しかった。
彼女の長い黒髪が揺れて、流れてきた匂いは、血の匂いをかき消すほど奇麗で。
「何、言ってるんだよ。守りに来たって、意味が」
分からない。
混乱していた僕はそれしか言うことが出来ず、彼女の小さな身体を震えながら見ていた。
そんな僕へ、彼女はすっと近寄って。
背伸びをすると、動けないままの僕にキスをした。
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