第34話 心

「ごめんね、こんなことになって」


 見送りに来てくれた藤森さんは、赤くなった目で僕を見た。

 彼女の悲しみは、僕に計り知れない。

 きっと、『義理の妹』と呼んだ犬は、ただの犬じゃない。


「大丈夫だよ。それより、今は悲しんであげて」

「うん」


 祖母が死んだ時のことを思い出す。

 あれだけショッキングだったにも関わらず、僕の悲しみは薄れて、今はどこかに行ってしまった。

 まだ、一ヵ月しか経っていないと言うのに。


「一緒に泣いてくれてありがとう。上谷君ってやっぱり優しいんだね」


 家を出る前、小さな亡骸を抱えていた藤森さんと一緒に、僕は泣いていた。

 彼女の涙を見てしまったからなのか、それは分からない。


「僕は優しくなんか無いよ。藤森さんが優しかったから、僕も泣いたんだ」

「……ううん」


 藤森さんが少しだけ笑って、首を振った。


「私、最低なんだよ。だって、私、カノンちゃんに上谷君を紹介したくせに、部屋に呼んだりして」


 その後の言葉は何を言おうとしたのだろうか。

 いや、そもそも言っていることが僕には理解できない。


「藤森さんは優しいよ。僕なんかよりも、ずっと」

「ありがと」


 藤森さんは一言だけ言って、それから身を震わせた。


「急に寒くなった」

「そうだね。一気に、冬になったみたいだ」


 10月。

 勢いをつけて町を冷やしていく季節は、このまま数か月かけて僕たちの体も、心も、全てを凍り付かせてしまうのではないだろうか。


 そんなわけはない。

 明日からはコートが必要かもしれないけれど、多分、それだけのことだ。


 僕らは別れる。

 イブが現れたのは、藤森さんの姿が見えなくなってからすぐのことだった。


「涙か。人間はなぜ泣く? 目にゴミが入ったわけではないのだろう?」


 空はもう、暗い。

 その中で、イブの青白い顔がぼうっと浮かんでいた。


 僕は何も言うことができない。

 人ではない生き物に、人間がなぜ泣いているのかをどう説明すれば理解してもらえるのだろうか。


「人間の心は複雑だ。私は遠くで感じていたよ。あのメスが発している脳波が強くなったし、信号も認識できた。あれが悲しいと言う感情なのか? 私には初めての感覚だったが」


 ふと、イブの目が潤んでいることに気づいた。


「何を見ている?」

「イブだって、泣いているじゃないか」

「私が?」


 イブは目を触って、自分でも驚いていた。


「これが、涙か。そうか。きっと、あの人間から受けた脳波の波長に当てられたのか。今の私の心は、自分では説明がつかない。人間風の物の言い方をすれば、胸が痛いとでも言うのか?」


 イブは胸に左手を当てる。

 脳波。

 感情のようなものを、見えない波で発することの出来る生物。


 だがしかし、驚いていたのはぼくも同じだった。

 この時、僕は、イブやソラが相手の感情を知り、共感が出来る生物なのだということを知ったのだ。


 だが、それならばなぜ、基本的に争い合う生物だとお互いが認識し合っているのだろうか。

 もし、野生生物として、生きるために必要なことと、そうして生まれてきてしまったからなのかもしれないけれど、それでも不思議に思う。


 そう考え込む僕に、イブが言った。


「それにしても、我々も人間も、性行為の前は同じ波長を出すのだな。その様子では何にもなかったらしいが」


 イブが目を細めている。


「性行為の、前?」

「発情だよ。どうやら、お前は私にかけられていた暗示のせいで、は疎いらしいな。私としては安心するが」


 イブが何を言っているのか、理解が一瞬遅れてやってきた。

 藤森さんの事だ。


「発情だなんて、そんな」

「お前に抱かれたがっているぞ、あいつは」


 その瞬間、藤森さんの言葉が色を持って僕の脳内に甦った。


『ごめんね、実は、その、前から……んの……と……なの。だから、気になって』


 実は、前から?

 カラオケで話したあの時、彼女はなんと言ったのだろうか。

 それに翌日、彼女を呼び出した校舎の影で、藤森さんは何を言っていたんだ?


『いや、でもさ、ほら、やっぱり、私が言ったことに対する上谷君の答えを知るのが、ちょっと怖いと言うか』


 答え?

 そんな僕の混乱した思考を、イブが破壊する。


「意味が分からないのか? お前に抱かれたがっていると言う意味が?」

「それは」


 出したくない答えだった。

 藤森さんが、僕のことを?


 先ほどの会話を思い起こす。


『一緒に泣いてくれてありがとう。上谷君ってやっぱり優しいんだよね』

『僕は優しくなんか無いよ。藤森さんが優しかったから、僕も泣いたんだ』

『……ううん。私、最低なんだよ。だって、私、カノンちゃんに上谷君を紹介したくせに、部屋に呼んだりして』


 私、最低なんだよ。と語った彼女の言葉の意味が、ようやく理解できた。


「気づかなかったのか? あのメスがお前を見る目を。遠目から見ても分かりやすいのだがな」


 僕は混乱している。

 僕はカノンが好きだ。

 だから、そんなの、困る。


「浩介がその気なら抱いてやったらどうだ?」

「そんなの、出来ない」


 ……無理だ。

 イブの声は、同時に、自分も抱けと言っているようにも聞こえた。


「そうだろうな。安心したよ。私を抱かない理由が、私が人間では無いからだという不安が少なからずあったからな」

「そんな理由じゃない。僕がイブを抱かないのは……」

「言わなくて良い」


 イブは、僕にカノンの名前を言わせない。


「どちらにせよ、今日はもう帰るぞ。私も少し疲れた。その前に浩介、お前の体液を少しもらいたい」

「……今?」

「今だ」


 イブがそっと僕に接近し、僕の首へ腕を回す。

 唇に柔らかい感触が触れた。


 いつもと変わらない、人と同じ唇の形。

 ぬるりとしたものが僕の口の中にやって来て、僕らの呼吸は交じり合う。


 ここは道の往来で、通行人もいないわけではない。

 だけど、誰も気にしている様子が無いのは、イブの気配を消すことに関係する能力によるものだろうか。


 しばらくそうして抱き合い、僕とイブは、駅へ向かう。


 命。心。季節。

 僕は自分の中で、変わり行く様々なものを感じて、ひたすら前を向きたいと思った。


 僕を標的とした敵は、この町に来てからは遭遇していない。

 しかし、それでも、危険は常に僕の周囲に在り続けた。


 命の危機を感じて過ごす日々は、いったいどこまで続くのだろう。


 終わりは、いつになるのだろうか。


 時間はゆっくりと進んで行く。

 冷えた夜が来て、やがて、今日よりも気温が下がった、冬の明日が来る。


――――――――――


 この時。

 まさか今日と言う一日が、僕とイブにとっての、最後の平穏なる日になろうことに、僕が気づくことはなかった。

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