第45話 深い闇の中へ

 顔に手を当てると、呼吸が感じられる。


 藤森さんは、確かに生きていた。

 そして、うっすらと眼を開けて僕の顔を見ると、すでに歪んでしまっている口で、僅かに微笑んだ。


「上谷、くん? 来て、くれたの?」


 藤森さんは痣だらけの腕を動かそうとして、出来なかったらしくひたすら涙を流していた。

 指が何本か折れ曲がっているのが分かる。

 良く見ると、足首も不自然な方向に曲がっていた。


「くそっ、こんな、なんで」


 手当をしなければと思う。

 でも、どこから何をどうすればいいのか、まるで思いつかない。


 目を覆いたくなるような惨状。

 傷の無い場所がどこにも無い。

 藤森さんは、ぼろきれのようになった制服しか身につけていなかったが、だからと言って目を逸らすことなど出来なかった。


「もう、だめか、と、思った」


 藤森さんはそう言って、再びささやかに笑みを見せた。


「助けに来て、くれたんだよね。私、ずっと、上谷君の助けになりたいって思ってたのに、でも、助けに来てくれたんだ」


 やはり痛むのだろう。

 藤森さんがウッと呻き。

 それから言葉を搾り出すようにして、言った。


「ねぇ、上谷君、私、上谷君の、こと、ね、ずっと……」


 だが、言葉はそこで止まる。


 僕の眼下。

 藤森さんの背中に、穴が開いた。


 見えない腕。

 その形状が全く分からないが、藤森さんの皮膚を切り裂き、肉をえぐり、そして。


 赤い血がどくどくと流れた。

 藤森さんは、もう、喋らない。

 動くことも、何も。


「な……」


 僕は、何も出来ずに、ただ、それを見ていた。

 男の声が響く。


「なかなか面白い経験だったよ。暇つぶしにはなった。……なんだ、その顔は? 生かして返すと思ったか?」

「なんでだよ……ッ!」


 どうしようもない悲しみが、僕の中にある。


「なんで、人間の言葉が分かって。脳波だとかで、感情とか、痛みとか……今だって、人間の心がわかってたんだろ? なのに、なんで……!」

「人間の心だと?」


 男の顔に怒りの形相が出現した。


「人間などゴミ虫だ。なぜ、我々を差し置いて繁栄しているのだ。なぜ、水を汚し、空気を汚している害虫がやたらと繁殖している? 無力で強欲な、醜い劣等種の心を、どうして理解しなければならない?」

「良い人間だって、いる!」

「俺たちから見れば、全てが等しくゴミ虫だ」

「違う! いたんだよ! ここに! 藤森さんは、藤森さんがいれば、お前達とだって、分かり合えたかもしれないのに!」


 イブを思いだす。

 藤森さんの家で、死の悲しみを感じ取った、イブのあの顔を。

 彼女を通して、僕達は分かり合うことが出来たかもしれないのだ。


「きっと、分かり合えたのに!」


 次の瞬間、僕の左わき腹に鋭い痛みが走った。


「グ……ウッ……!」


 信じられない痛み。

 多分、あの見えない腕が僕の胴を切り裂いたのだろう。

 血の気が頭から引く。

 とてもじゃないが、立っていられなかった。


 当然だ。

 僕の腹部から、裂かれてドロドロになった臓物が血と共に飛び出ている。

 意識があるのが不思議なくらいだった。


「うるさい奴だ。だが、もう喋ることも出来まい。楽に死ぬような傷ではないが、致命傷だ。お前はもう、助からない」


 男がそう言って、他の男達と一緒に、この場所を出て行く。


「そこで一人、ゆっくりと死ね。誰も来ないところだ。死体の回収は後回しにしてやる」


 僕は顔を地面に打ち付ける。

 コンクリートの床が、酷く冷たい。

 しかし、すでに全身に力が入らないことを自覚していた。


 死。


 こんなにも、あっさりと、僕は死ぬ。


 今まで、何度か死を思った。

 神社。サービスエリア。ホテル跡

 でも、イブが助けてくれていた。


 いつもそうだった。


 僕が死んだら、イブはどうするのだろう。

 イブは、悲しんでくれるだろうか。


 藤森さんの家で死んだ、彼女の義理の妹を思い出す。

 種族の違いだとか、身体の大きさだとか、そんなの関係ない。

 死は、悲しくて、寂しい。怖い。

 人間なら。そう思う。


 でも、イブは悲しむどころじゃないかもしれない。

 僕がいなくなったら、イブも生きていけないのだから。


 いや、そもそも、イブは今、無事なんだろうかと言う不安がある。


 あの日から、ずっと死が僕らを追いかけてきていた。


 ああ、ダメだ。

 イブに、僕の体液をあげないといけない。

 彼女は、僕がいないと死んでしまうのだ。

 流れていく血液を、全部イブにあげたい。


『少し、冷たすぎる』


 アイスクリームを食べていたイブの、無表情の中にあった照れのようなものを思い出す。

 ……寒い。

 もう藤森さんがどこにいるのかも分からない。

 このまま、僕は死ぬのだ。


 イブ、ごめん。

 僕を逃がしてくれたのに、こんなところで、僕は。

 ……

 ふと、視界の隅にイブがいることに気づいた。

 恐らく、幻だと思う。

 こんなところにいるはずがない。


「バカな。こいつ、死に掛けているぞ」


 そうだよ、なんて返事も返すことが出来ない。

 今の声は、誰だ?


 ……ああ、と思い出す。

 脳波を出さない、あの敵の声だ。

 イブを殺して、それで追いかけてきたのだろうか。


 視界が、酷く暗い。


「そっちはもう、死んでいるな。なぜ、無意味に人間の、それもメスを殺したのか。やはり奴らは危険だ」


 男の声が、段々と薄らいでいく。


「浩介」


 それは突然に聞こえてきた。

 男の声ではない声だ。


 聞きなれた声。

 紛れもなく、イブの声だ。


 恐らく、先に逝っていて、今、死んで行く僕を迎えに来てくれたのだろう。

 頭の中はずっと冷静で、それでもずっと眠い。


 寒い。暗い。

 耐えられないような孤独。

 それが、少し、やわらいだような気がする。


「このまま、お前を死なせはしない」


 聞こえたその声が最後だった。

 僕の意識は、薄れて。

 暗くて、何も……

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