第10話 IF(イブ)
いったい何を言ったらいいのか分からないまま、時間は過ぎる。
言葉を探してようやく出たのは、名前のことだった。
「そうだ。あのさ」
「なんだ?」
「名前、教えてよ」
彼女は、再び不思議そうな顔で僕を見返してきた。
「知ってどうする? 我々の種族には名前なんて無い」
「違う。君の名前だよ。ほら、話する時とかにも、なんて呼んだら良いのかわからないだろ?」
彼女は少しだけ考え込んだようだった。
慎重に言葉を選ぶようにして、口を開く。
「人間は変なことを気にするな」
「変なことって。大事だろ、名前」
「じゃあ聞くが、人ではない私が生きていくのに必要な物なのか?」
彼女は表情を変えない。
「不便だよ。ずっと『君』とか『お前』とかで呼ぶのなんか嫌だし」
彼女は再び黙り込むが、今度はすぐに言葉を返す。
「一理あるかもしれないな。今まで何度か同じ事を聞かれたが、なるほど」
今まで、いったい何人の人間と、彼女は触れ合ってきたのだろうか。
どれくらい生きてきたのだろうか。
「良いだろう。では、何か名前を付けてみろ」
彼女は堂々と言い放つ。
「いや、付けてみろって言われても。今まで名前とかは無かったの?」
「無い」
即答。
「無くても困らなかった」
「困らなかったって。困るだろ、普通」
「必要な時に抱かれて、襲ってくる敵を殺した。それだけの生活に名前が必要だったことはあまり無い」
空虚な時間が、彼女の言葉とともにやって来た。
「抱かれた? それって……」
「セックスだよ。精液を摂取した」
改めて見たが、彼女はあまりにも幼く見えた。
少なくとも、17の僕よりも、2つも、3つも年下に見える。
「どうした?」
「だって、そんなの。僕から見たら、君は子供に見えるから」
先ほどから僕は、彼女が不思議そうにする表情を何度も見ている。
「子供? 人間で言えば繁殖適齢期ではないのか?」
「違う。少なくとも、僕が知っている世界じゃ……」
……でも。そんなの、誰が決めた?
中学生の時にも、僕の周囲で誰と誰がシタだのと、そう言う話が出なかったわけじゃない。
「人間の道徳感なぞ知らん。浩介。私を抱くのに躊躇いがあるなら、試してみるか?」
悔しいことに、即答できなかった。
廃墟の時も、今も、僕の身体は反応してしまっていた。
彼女が少しだけかすれた声で囁く。
「悩むなら、した後で考えろ。我慢するな。言っただろう? 抱いてくれると、私も助かる」
「……出来ないよ」
僕は邪念を振り払うかのように、そう言った。
「浩介。何を躊躇っている? 我慢しているのは見るだけで分かるぞ」
「僕は、その」
そこまで言って、言葉を飲み込む。
神社での、犬を殺した時の言葉が蘇った。
『障害を排除した』
こんなことを平気で僕に言うこいつに、カノンのことを話すのは危険だと思う。
誘惑を拒む理由をここで話すと、もしかすると……
『排除』
カノンが危ない。
「僕は、ちゃんと、君のことが好きになってからじゃないと嫌だ」
「好き?」
彼女は目を細めた。
「また分からないことを言う。好きとは何だ?」
「正直、君のことは、今は嫌いだ」
僕はでまかせを口に出して言う。
「嫌い?」
「君は綺麗だよ。今だって、本当はくらくら来てる。でも、本当に僕の味方なのか、信じて良いのか、その、確信が持てないんだ」
「浩介。お前と言う人間が良く分からない」
「な、何が?」
「今だって苦しいはずだ。私の身体は、君の本能を刺激して私を求めさせるように出来ている。他の男など、私をすぐに抱いたぞ」
僕は唇をかみしめた。
「僕は、したくない。僕が、僕だから。上谷浩介と言う人間としての僕が、そう思うから」
「そこで名前を出すか」
「そうだよ。名前。大事なんだ」
彼女は本当に困惑している表情を見せた。
表面上は、まるっきり人間に見える。
「今まで私に名前を付けようとした人間がいなかったわけじゃない。だが、断ればそれ以降、気にされることもなかったし、実際にそんなものは必要なかった。だが、私にも名前があれば、お前の気持ちも分かるかもしれないな。良いだろう。好きに呼ぶと良い」
彼女はそこまで言うと、優しく微笑んだ。
相変わらず、目を少しだけ細めて。
「イブ」
僕は言った。
「イブはどう?」
「イブ?」
彼女は考え込んだ。
「日本人の名前にしては珍しい気がするな」
「僕もそう思う。だけど、良いのが思いつかない」
でも、世の中に変わった名前の人間なんて、腐るほどいる。
イブはIF。アルファベットのIとFの、イブだ。
もしかしたら発音はイフだったかもしれないけれど。
「もしも、とか、そういう意味の言葉だった気がする」
英語の成績は良くない。
だけど、もし、彼女と言う存在と分かり合えることが出来るなら。
上手く、本当の意味で助け合えて生きることが出来るなら。
「イブか。良いだろう」
彼女は僕の思惑なんて知らずに、今日、何度目になるかもわからないけれど、目を細めて笑った。
○
翌日。
僕達の家族は大火田町を離れることになった。
「そう言えば、昨日、交通事故があったらしいけど、もう道路も大丈夫だろ。昼には出るからな」
そう言った父は、早速荷物をまとめている。
交通事故。
それはニュースでも報道されていた。
昨日、神社で聞いたサイレンのことだと思う。
何でも、信号待ちしていた車が突然ひっくり返ったと言う謎の事故らしい。
町の入り口の国道。
映像を見る限り、事故車の車種は僕たちが乗って来た車と同一のようだった。
「イブ。車をひっくり返すとか、君にも出来るの?」
「出来る。奴らにも当然な」
昨日の化け物の仕業だと思った。
「怖いな。でも、もういないんだろ?」
「いない?」
イブの答えは否定的だった。
「町に入って仕留めたのは浩介の目の前に来たアイツを含めて六匹だが、果たしてそれで全部なのか? 時間的に見て車をひっくり返したのは、昨日戦ったアイツではない」
「どういうこと?」
「少なくとも、もう一匹いる」
「もう一匹……」
「恐らく戦いになるな」
また襲われるのか。昨日みたいな化け物に。
「浩介。今のところ、奴に攻撃の意志は低そうだが、割と近くにいるぞ。油断はするな?」
「どういうこと?」
「殺意を感じない。今はまだだが」
どこか説得力のある声で、イブは言う。
「敵に動きは無いが、いつ仕掛けて来るかはわからない。私のそばを離れるなよ」
僕は自分1人で生きることが出来ないと言うことを理解した。
1人で化け物に襲われれば、今度は簡単に殺されてしまうだろう。
僕は祖母に線香をあげに行く。
もちろん、イブも一緒だ。
イブが神社で言った、祖母が奴らに殺されたと言う事実が本当かどうかは分からない。
だけど、それが本当なら悔しい。
僕は思う。
おばあちゃん。どうか安らかに。
そして、どうか。僕に生きるための力をください。
―――――
やがて昼になり、父の宣告通り、僕らを乗せた車は出発する。
従兄や祖父のいる家を後に残して。
「浩介」
「何?」
車がしばらく走った後。
後部座席に乗った僕とイブはこそりと話していた。
「敵だ。どうやらつけられているぞ。あっちも車に乗って移動中だ。しっかり距離をとって、ずっと付いてきている」
帰路は最悪の旅になりそうだった。
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