第1章 プロローグ 2015年 7月~

第2話 彼女

 正確には2015年、夏休みを控えた7月の15日。

 夏の灼熱の暑さに焼かれ、陽炎がアスファルトの輪郭をおぼろげに揺らしていたその日、僕は一人の女の子を助けた。


 電車の中である。


「い、いやです……やめて、ください……お願い、やめて」


 小さな声だった。


 声を殺し、極力誰にも気づかれないようにと必死に懇願している、犠牲者の声だ。

 僕は、耳が特別良いわけでもない。

 でも、その声は僕の耳にはっきりと届いた。

 そして、僕のすぐ近く。

 二人の男に囲まれていた彼女を見つけたのも、それほど難しいことではなかった。


 男を見れば、彼女の肩の下に手を回して何やらごそごそと動かしている。

 痴漢だと、すぐに分かった。


「……っ、ぅ……ぃ、ゃぁ」


 彼女が声を殺して苦痛の声を上げる。

 別に正義感ぶるわけでもないけれど、僕の心に彼女を助けなければという感情が生まれた。

 厳密に言うと、単純に性犯罪への怒りだったのかもしれない。


 行動を起こすのに躊躇ためらいは無かった。

 それを黙って見ていることなど、その時の僕には出来なかったのだ。


 僕は男たちの間に手を突き入れ、彼女の制服の袖を探り当てると、強く掴んで、全力で引き寄せた。

 彼女は倒れかかりながらも僕に引き寄せられ、そうしてやって来た彼女を、僕は後ろに作った隙間に隠して、前に立つ。

 そして、彼女を囲んでいた二人の男を、僕は睨みつけた。


 数秒。

 ギョッとした驚きの表情が、そこにあった。

 スーツを来た男で、二人とも大人で、身体も大きくて、スポーツマン然としたさっぱりとした髪型で……でも、とたんに目が泳ぎだし、人を無理やりにかき分けながら逃げて行く。


 そして運悪く電車が駅に到着したらしく、開いたドアから逃げて行ったらしい。

 僕は彼女の手を引いて電車を降りたが、逃げた二人の男を見つけることは出来なかった。


「大丈夫?」


 人を満杯に乗せた電車が行ってしまい、乗り遅れた人々がまばらに歩く駅のホームで、僕は声をかける。

 彼女はボロボロと涙をこぼした。

 制服はどこかで見たことがある気がしたが、学校の名前は思い出せない。

 とにかく、身長は低めだが、高校生だ。

 僕の高校とは違うものだったけれど、間違いなく僕の通っている学校の近くの高校のものだったと思う。


 髪は黒髪で、長さは肩まで。

 おとなしそうな雰囲気を持った女の子だった。

 まだ震えているその体は、まるで小動物化のような印象をこちらに与えていて、それでいて、ギュッと抱きしめているカバンを放そうともしない。


「……あ、ありがとう、ございます」


 彼女は静かに口を開いた。

 声自体も震えていて、彼女にとって、これが酷く辛い体験だったことを物語っている。


「怖くて、大きな声、出せなくて」

「うん。分かるよ。大丈夫?」

「はい、あの。本当に、ありがとうございました。あっ」


 滑ったのだろう。

 彼女の小さな手が、カバンを落とし、カバンに着いていた缶バッチが無機質的な音を立てた。

 その瞬間、彼女の乱れた着衣――外されたボタンだったり、その隙間から見えるずらされた下着だったりを見てしまい、慌てて目をそらして、彼女が誰にも見られないようにと周囲に目を配る。

 空気を読んだらしい彼女は、その時に初めて自分の状態に気づいたらしく、カバンを拾い上げると再びカバンを抱きしめた。


「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」


 何のための謝罪なのかは分からない。

 ただただ、彼女は泣いた。

 それから彼女が壁に向かい、人目を気にしながらも服装を正しているその間、僕は、彼女が誰にも見られないようにと、次の電車に乗るために歩いている見知らぬ人々を警戒し続けていた。


「……もう、大丈夫です。あの、誰にも、言わないでください。こんなことされたって、誰にも知られたくないです」

「言わないよ。そんなことより、君は大丈夫?」

「はい。あの」


 彼女はジッと僕の目を見て、それから続ける。


「お名前、教えてくれませんか?」

「僕の? なんで?」

「ちゃんと、お礼言いたいんです。私を助けてくれた人の名前、知りたくて。あのままだったら、何をされてたか。本当に危ないところまで、触られるところで、その」

「詳しく言わなくて良いよ」


 必死な彼女に僕は言った。


「本当に良いからさ。大したことしてない。あんなの、気づいたら誰だって助けたと思うし」

「誰も助けてくれませんでした」


 彼女は僕の目を見つめたままはっきり言うと、僕の言葉を再度、否定する。


「あなただけです。気づいた人もいると思うけど、でも、その人たちはチラチラ見るだけで、誰も助けてくれませんでした」


 目力と言う奴なのだろうか。

 大人しそうに見えたけれど、心の芯の部分はずっと強そうだ。

 彼女が折れることはないだろうと、僕は観念して、名乗った。


上谷かみやです。上谷浩介かみやこうすけ

「上谷さん」


 彼女はお辞儀をする。


「ありがとうございました、上谷さん」

「どういたしまして。それじゃあ、僕は行くから。次からは女性専用車両に乗るようにした方が良いよ」

「え、あの」


 未だ動けない彼女を残し、ちょうど到着して開いた電車のドアに入り込む。

 悪いような気もするけれど、これ以上、彼女に関わるつもりが僕にはない。

 きっと、もう、僕の助けはいらない。大丈夫だと思う。

 それに、学校に遅刻してしまうかもしれないのだ。

 ……急がないと。


「待ってください、あの……!」


 彼女の声は電車の力ない冷房と、グラグラとした暑さの狭間はざまでかき消される。

 そして電車のドアが閉まり、流れる景色と共に、彼女は遠くなっていった。


 それから若干遅れ気味の時間に学校へ着き、授業を受けて、放課後。

 再び電車で家に帰り、新しい自転車を母と買いに行って、今度はチェーンのカギも追加で買う。


 その日、電車通学だったのは、僕の自転車が盗まれたからなのだ。

 二重にロックすれば、もう、盗まれることはないだろう。

 

――――――――――


 そうしてたった一日。

 おそらく、最初で最後であろう電車通学の登校中に起きたこれが、彼女と出会ったエピソードである。

 本来ならば、それ以上、関わる予定の無かった人だった。


 でも、彼女は、どうしても僕と関わり合いになりたかったらしい。

 彼女が僕を見つけるのに、一カ月もかからなかった。

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