第13話 嘘
「何をしている!」
イブが驚いている。
噛んだ指は酷く痛いが、かまわない。
僕は、血と唾液で濡れた親指をイブに差し出した。
「血。キスより良いんだろ?」
「確かにそうだ。だが、何故こんな手段を選ぶ? 何故、私を抱かない?」
「嫌なんだ。僕は」
イブは少し躊躇った後、素直に親指を口に含んだ。
「ん……」
イブが僕の指を吸う。
まるで赤ん坊のように。
ややあってイブは口を放し、僕に言う。
「意味がわからない。人間の発情期は一年中ではないのか? 他の男たちは、喜んで私を抱いたぞ? 今まで出会った人間とは、少し違う。浩介を理解すのがとても難しく思える。いったいなんなんだ、お前は?」
イブがうろたえている姿は初めて見た。
……何故なのだろうか。
こういった顔もするのに。
まるっきり人間に見えるのに。
「僕だって、イブのこと分からないよ」
スマートフォンが再び着信を告げた。
「イブ。行こう、父さんと母さんが待ってる」
それから後は平和そのものだった。
道中は長かったけれど、渋滞はなく、イブの探知機にも敵は引っかからずに、そのまますんなりと家へと帰れた。
着いたのは深夜。
何日も空けた家は、ひっそりとして少し寂しかった。
荷物を解く。
カノンからのメッセージは、まだ無い。
「浩介」
イブが僕の部屋にやって来た。
「苦しいんだ。お前の体液が足りない」
僕らはキスをする。
親指の傷はすでに塞がってしまっていて、血を与えることは出来ない。
「ン……浩介」
体温。イブの匂い。
両親は疲れて眠ってしまい、家はとても静かだ。
階下の寝室からは寝息も聞こえてこない。
「どうしても、ダメか? 抱いてはくれないのか?」
「ダメだよ。出来ない」
イブは僕の胸に、額を当てた。
「お前を理解したい。生きるために。私はどうしたら良い? どうしたら、お前と言う人間を」
言いかけて、黙る。
僕はイブを理解することが出来そうに無い。
普段の彼女の言葉や行動、人間とはまるで異質な物と分かる表情を、僕は何度も見ている。
でも、今のイブは恋をしている少女のようで。
愛を求めている子供のようにも見えた。
「イブ。君の事を教えてよ」
「私のことだと?」
イブは実に不思議そうな顔をした。
「私の何を知りたい?」
「生まれてから今まで、どうやって生きてきたのか」
「生まれてから?」
イブは考え込んでいた。
「昔のことなど覚えていない。ただ、生きるために必死だった。適合する人間を探し、その男達と共に生きた。それだけだ。それより浩介のことを知りたい。お前は私が知っている人間の男とはまるで違う」
今度は僕が考え込む番だった。
「……自分が他人と違うなんて、思ったことも無いよ。普通の家庭に生まれて、兄弟の一人でもいればもう少し楽しかったんじゃないかななんて思う一人っ子で」
イブが手を、僕の手に重ねて来た。
自分と近い、柔らかな体温。
「普通とはなんだ、浩介? 人間は一人ひとり違って見えるが、私からしてみれば些細な違いだ。お前のような人間も簡単に探すことが出来るだろう。だが、それでもお前を特別に感じる。いったいお前はなんなんだ? どうしてお前は私をこうも惑わすのだ?」
「そんなの、知らないよ」
答えが出ることは無い。
僕とイブは、そうして肌だけを重ねて。
それでも決定的な一線だけは越えず、夜を過ごした。
僕はイブと言う存在がますます分からなくなってくるのを感じる。
人間の形をして、言葉を喋り、人間と共に生きてきた彼女。
人間とはまるで違った考え方を持つ生物。
少なくとも生き物を平気で殺すなんてことは、僕には出来ない。
例え敵だったとしても。
カノン。僕はいったい、どうすれば良いのだろう。
君のことを思えば胸が苦しいし、幸せな気持ちになれる。
君のことが好きだと思う。
また君と町を歩きたいと、そう願っている。
どうか、冷たく接してしまったことを、謝罪させてほしい。
そして、今まで聞く機会を逃していた、君の名前が知りたい。
ハンドルネームではなく、君の本名を。
……僕は、イブに嘘をついている。
僕は特別なんかじゃない。
恋をしているただの男子高校生だ。
大切な人のことを想い、嘘をついているだけの、ただの。
翌朝、僕は祈るようにスマートフォンを握り締めると、文字を入力した。
僕とカノンを繋げる、最新のメッセージ。
『カノンさん。帰ってきました。ごめんなさい。どうもありがとう』
多くは語らない。
今は、これだけで十分だ。
ふと、画面の日付を確認する。
日曜日。
部屋の隅で座りながら寝ていたイブはとっくに起きていたらしく、僕に向かって言った。
「浩介。起きたのか」
「眠れた?」
「ああ。起きてすぐにすまないが、頼む」
「……歯くらい磨かせてよ」
僕は顔を洗い、部屋に戻るとキスをする。
与えるものと、受け取るものに分かれているキスを。
だが、その時、イブの身体がピクリと動いた。
キスをした僕の身体を離して、それから真剣な面持ちで口を開く。
「浩介。何者かが家の近くに現れた。外へ出る準備をしろ。幸い、相手はこちらにまだ気づいていないようだ」
「何者かって?」
「脳波信号だ。敵の可能性がある」
平和は訪れない。
でも、負けたくない。
イブの足手まといにしかならないかもしれないけど、それでも僕は。
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