Ⅳ-3 覚悟がないのなら

 夕飯の買出しに賑わう市場が、騒然とした。


「例の変な文書、犯人が逮捕されたって」

「新聞社に公安部員が集まってるって」

「護送車も来てるのか。行ってみよう」


 悪気のないむき出しの好奇心が、人々の間に感染していく。


サクラは鞄から出しかけた財布を仕舞った。干した果実を計量する手を止め、店主が口の端をあげた。


「お客さんも、捕り物見物かね」

 厭らしい笑みへ、爽やかに頭を下げる。

「後でまた来るから」


 鞄の奥へ手を伸ばし、拳銃の存在を確認した。


 町外れの新聞社へと、人の流れが出来始めていた。その流れに乗って近くまでたどり着くと、すでに人垣は幾重にも連なっていた。


 サクラは人垣の後ろで爪先立ちになって首を伸ばした。

 そして、祈った。どうか、間違いでありますように、と。


 玄関先に、護送用の車が置かれている。

 後部に観音開きの扉がついている他、窓が一切ないウマ車だ。人々の叫び声や泣き声、怒りを受けて、ウマは興奮してしきりと首を振っていた。


 程なくして、本部員に両脇を抱えられた副社長の姿が、開いた扉から見えた。


「カイトさん」


 思わず声に出してしまった叫びは、一段と盛り上がった人々の怒号にかき消された。

 俯いていたカイトが、一瞬こちらを見た気がした。穏やかな顔で。


『万が一のときは、私が全面的に罪を被る。原文を暗記しているあなたは、逃げて、次の機会を窺って欲しい』


 あの時のカイトの言葉が、サクラの胸を締め付けた。


(無理)


 サクラは、路地へと身を翻した。

鞄の拳銃を探り、弾倉を確認する。


 無論、これだけ大勢の人を相手に勝てるわけはない。野次馬を抑えるため支部員も召集されている。人垣に遮られ、個々の顔までは見えなかったが、東守口支部の管轄だ。

ちらりと、マサキの顔が脳裏をよぎった。


 サクラは、家屋同士が寄り添うように立っている間を駆け抜けた。


 狙いはウマだ。

すでに十分興奮しているウマを刺激すれば、現場に混乱をもたらすことが出来るだろう。その隙に、カイトを救える可能性に賭けようと思った。


 ゴミや野良ネコを避け、ウマが射程内に入る場所へ、滑るように走っていく。


 最後の角を曲がる手前で、背後から腕をつかまれた。

不意をつかれ、拳銃を取り落とす。声を上げる前に、湿った布で口を塞がれた。かすかに甘い臭いが漂う。


『出て行ってどうする』


 耳元で囁かれる声に、覚えがあった。振り返るにも、強い力で押さえ込まれ、動けない。後頭部が相手の身体に押し付けられる。鼓動が伝わる。

 それでも、サクラは逃れようともがいた。


 主犯は自分だ。


作業員としてもぐりこんだ新聞社から活字を盗もうとしたサクラに、カイトは協力を申し出た。


 論文を書いた中央研究員のもう一人の孫として。

テゥアータの形質をもつ地球人種の女性との婚姻を反対されている男として。


カイトは倉庫に眠っている古い機械の提供と、紙やインクの手配をした。そればかりでなく、一般の民には難解な論文の内容を、平易な文面に書き直すことを提案してくれた。

 彼の協力無しに、祖母から預かった文書を地郷全域に知らしめることはできなかった。


 カイトの恋人は先日、隠れ家で無事女の子を産んだ。彼は、娘の顔をまだ見ていない。


(私のせいだ)


 瞼をグッと閉じる。頬を涙が伝った。堪えきれない嗚咽が、喉の奥で音をたてる。


 くぐもった囁きが、耳元をかすめる。


『覚悟のうえではなかったのか? 最悪の事態をも受け入れる覚悟がないのなら、今すぐ手を引け』


 薬の効果が、体から力を奪っていく。薄れゆく意識に抗うように、サクラは重い瞼を懸命に引き上げた。


 口元を覆う袖口が視野に入る。洗っても完全には落ちない汚れが染み付いた、白い制服の袖。


『堪えるんだ。今は』


 食いしばった歯の間から搾り出されるような囁きを聞きながら、サクラの膝は、全身を支える力を失っていった。


 崩れ落ちそうになるのを支えられ、建物の壁へ凭れかけさせられる。焦点の定まらない目が、輪郭を失った白い後ろ姿をとらえた。


 睡眠薬のせいで、体が重い。早く戻って、カイトの恋人と娘を逃がさなくてはならないのに、立ち上がることが出来ない。


 臭いから考えて、薬の効力は日が暮れるころまで続くだろう。舌打ちすら思うように出来ず、サクラは諦めて瞼を下ろした。


(覚悟って。自分はどうなの。出来てたなら、どうして放っておいてくれないの。私はもう、あなたの娘じゃないのに)


 サクラの頬を、新たな涙が伝って落ちた。

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