Ⅸ-2 ひるがえる旗

 焦げ臭い。マサキは恐る恐る目を開いた。


「チハヤ、さん」


 彼の左脇、通信機を提げていた場所から血が流れていた。打ち抜かれた小型機械はチリチリ小さな火花を散らし、くすぶっていた。


「政府がなぜ、膨大な金と技術をつぎ込んで末端の地郷公安部員にまで高価な通信機を配布したか、考えたことがあるか」


 静かな問いかけだった。無言で首を横に振ると、チハヤは嘲笑うように、口端をあげた。


「これには、盗聴器が仕込まれている」


 地郷政府が地郷公安部員を管理するために。非番であろうと常に携帯させることで、四六時中見張られていた。


 背筋が冷え、マサキは思わずハジメを抱きしめる腕に力をこめた。ハジメがここにいることも、すでに知られていると思っていい。


「これだけの資金を灌漑や農地の整備に充てれば、地郷で飢える者が居なくなるだろうに。そうは、思わないか?」


 ただの金属屑となった高度な技術の結晶を床へ落とし、チハヤは長靴ちょうかの踵で踏みにじった。

 次にマサキたちへ向けられた目には、穏やかさが戻っていた。


「本当に、いたんだな」


 しばらくハジメを見つめた彼の顔に、かつての優しい笑みが浮かんだ。


「よく、似ている」


 しゃがんで視線を低くし、手を差し伸べられた。しかし、ハジメは身をすくませ、マサキにしがみついてきた。


 マサキもまた、警戒を解くことが出来なかった。チハヤの豹変ぶりに理解がついていかない。背にハジメを庇い、チハヤと対峙した。


 わずかに、チハヤの顔が歪んだ。

 小さく息を漏らすと、チハヤは拳銃を収め戸口へ歩いていった。


 出て行く前に一度振り返った。


「できるだけ早く、ここから脱出しろ」


 肌寒さが流れ込み、再び扉によって遮断される。足音が遠ざかっていった。

 張り詰めていたものが切れた。見えている天井や壁が柔らかく歪み、渦を巻いた。


 マサキは、崩れるように倒れこんだ。




 昼間にも関わらず静まり返った官舎前の通りを、チハヤは歩いた。連なる屋根を睥睨するようにそびえる時計塔の長針は、直に真上を指す位置に控えていた。


「残念だよ、チハヤくん」


 背後からかけられた声を、彼は予測していた。ゆっくり振り返る。好々爺の笑みを浮かべた副本部長が、側の腹心の銃口に援護されて立っていた。


「君なら、立派に私の望みを叶えてくれると期待していたんだがね」


 笑みでも覆い隠せない暗い炎が、チハヤを睨んだ。しかし、もはや動じる必要もなかった。チハヤは、その端整な唇を引き上げた。


「所詮私は、人に懐かぬ山の獣ゆえ」


 副本部長の頬がピクリと引きつった。側に立つ男が撃鉄をあげた。


 チハヤは不敵な笑みを浮かべた。

 滑るように銃を抜き、迷わず狙いを定めた。


 ほんの一瞬だけ、後にしたばかりの官舎へ視線を走らせ、顔を和らげた。


 時計の長針が、震えながら動いた。真上を、天を指す。


 引き金を引いた。男の指もほぼ同時に動いたのを認めた。

 銃弾が迫る。


 地面を震わせ、時計塔の中ほどが弾けた。それを合図に、地郷の方々で一斉に火の手が上がった。




 煙が充満してくる。


「まちゃ……まちゃぁ」


 小さな呼び声に、意識が押しあげられた。


(そうだ、守らなくちゃ)


 己を叱咤するものの、指先ひとつ動かすもの困難だ。ハジメの小さな手が袖を引く振動で、頭が割れるように痛んだ。

 彼は細い足を踏ん張り、どうにかしてマサキの体を戸口へ引こうと奮闘していた。しかし、細いとはいえない成人男性の肉体は、糸の幅ほども動かなかった。


「もういい。お前だけ逃げろ」


 何度目だろうか。同じ台詞を繰り返したが、対するハジメの返事も同じだった。


「め! まちゃも」


 そうしている間にも、窓の外は煤や灰で暗くなっていく。


 寝台の足元へ置いた洗い替え用の制服が目に留まった。ハジメに言って取りに行かせると、素直に持ってきた。


「それを、頭から被って。そう」


 広げた上着の襟首を頭にかけたハジメは、真剣な面持ちでマサキの言葉に従った。


「そのまま出て、火の無い方に行くんだ」


 逃げるよう促した刹那、ハジメは重みのある上着を投げ捨てた。


「ぃや」


 怒りを露にすると、再びマサキの袖を掴んだ。ぐっと体を反らせ袖を引く。チハヤに斬られたところから布が裂け、ハジメは勢い良くもんどりうって壁まで転がった。

 安否を確認しようにも、頭を床から離す力も残っていなかった。やがて、悄然と這って戻ってきたハジメの手を、優しく撫でてやった。


 火は勢いを増していた。木が爆ぜる音が近付いてくる。合間に、銃声や悲鳴、怒号がしていた。

 外で何が起きているのか、皆目分からない。

 流れ込んだ煙に、ハジメが咳き込んだ。


(これ以上は、無理だ)


 大切なサクラとセオの息子を預かっていながら、わずか一日しか生きながらえさせてやれなかった。無念にうちひしがれながら、マサキはハジメに近くへ来るよう言った。


「出来るだけ顔を低くしていろ」


 ぴたりと体を寄せ、マサキの腕と床の隙間に顔を突っ込み丸くなるハジメの体へ、可能な限り腕を回す。

 熱気が、狭い官舎の中で渦巻いた。


(燃えるなら、燃えてしまえばいい)


 焼け焦げたなら、地球人種もテゥアータ人も同じだ。髪も目も、色の判別が不可能になる。ハジメの亡骸が、セオのように晒される心配をせずにすむ。


 腕の中でハジメが弾けるように顔を上げた。同時に、屋根の一角が火の粉を上げて崩れ落ちた。

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