第九章 明かされる事実
Ⅸ-1 剥き出しの憎悪
重い体をふらつかせながら庁舎へ向かうと、事務室でも職場の訓練施設でもなく、取調室へ連れて行かれた。
支部長が重々しく一枚の紙を机上へ置いた。
「貴様を、地郷公安本部直属近衛兵として任命する」
どくりと、心臓が裏返る勢いで鳴った。
近衛兵は、ミカドとその周辺の警護にあたる。テゥアータ軍が攻め入れば、命を賭して立ち向かうよう、厳しい訓練の日々を送る。
もっとも、テゥアータ国が軍を送りんでくる気配はないと言われていた。仮に送り込んだとして、地郷の武器で太刀打ちできる力ではないことは、六十年ほど前の戦いで示されたはずである。しかし現在、過去の事例は厳重に隠蔽されていた。
衣食住全てが「方舟」を囲む頑強な塀の中で完結する。外へ出る自由は奪われ、いつ必要とされるか分からない厳しい訓練の日々を送ると言われていた。
事実上の終身刑だ。
マサキに断る権利はない。表情を消して、深く体を折り礼をして辞令を受けるしかなかった。
「明朝、本部から迎えのウマ車が官舎に来るはずだ。それまでに荷物をまとめておけ」
これも実質、犯罪者の護送と同じである。
それまでに、ハジメをどこか安全な場所に預けなくてはならない。思い当たるのは、セオの存命中からサクラたちと親交のあった医師レンだった。ハジメの出産でも世話になった。その後も何度か具合が悪い時に診てもらっている。しかし、そこへ行くまでに尾行がかわせるだろうか。
「診療所も行ったのか? すぐそこだ。今から寄っていけ」
庁舎を出て左へ行き、すぐの角を右へ折れたら東守口支部かかりつけの診療所があった。しかし、町のはずれにあるレンの診療所へ行こうと、マサキは角を一歩通り過ぎた。途端に、刺すような視線を感じて振り返った。
近くの木の幹に素早く身を隠す影があった。
(やはり、監視されているか)
こうなると、大人しくかかりつけに行くしかない。密かに歯を食いしばりながら、マサキは引き返した。
食料を買うときも、常に複数の怪しい人影が周囲にあった。
一人分に一品足した程度の食料と水を持って官舎に戻るだけでも、マサキの体はふらつき、意識が朦朧としていた。
傷口から侵入した菌と疲労で、かなり体温が上がっていた。弱った体で命運をかけなくてはならない。
賭けるとしたら夜、闇に紛れての逃走だが、それも勝算は少ない。
ハジメを背負い、庇い、襲い掛かってくるだろう未知数の敵をかわし。どこまで行けるのか。一区画すら進めないかもしれない。
それでも、やるしかなかった。
頼りない足を踏みしめ官舎まで来たとき、扉を背にだらしなく座り込む男の姿が目に入った。ギョッと足を竦ませ、唾を飲みこんでゆっくりと近付いた。
酒臭い。
「あの」
おそるおそる声をかけると、男が身じろぎをした。落としていた頭をグラリと起こした。
驚きのあまり、マサキは男の、チハヤの肩をゆすった。
「しっかりしてください」
普段の上司と雲泥の差があった。服の襟元がはだけ、細い顎は無精髭に覆われている。何より泥酔しており、腰に提げた拳銃と通信機がなければ、浮浪者と見紛う低落だ。
呼びかけに薄く目を開いた顔はひどく老けて見えた。胸が痛んだ。食いしばった歯の間から呼びかける。
「ああ、マサキか」
答える声も、普段の彼からは想像できないほど間延びしていた。
「班長の官舎は、三軒向こうです」
「いや、すまん。力尽きてしまったな」
壁にすがって立ち上がろうとするが、力のこもらない手が滑り、慌ててマサキは腕でチハヤの長身を支えた。
「とりあえず、入ってください」
無様な姿を、他の誰か、特に一班の新しい射撃手や捜査官に見せるわけにいかない。マサキは扉を開け、わざと大きな声でチハヤに声をかけながら素早く室内を確認した。
ハジメの姿は見えなかった。留守中に何者かが侵入した形跡もない。言いつけどおり身を隠しているのだろう。
安堵しながらも、念のため寝台が見えない床にチハヤを座らせた。椅子では、とても座った姿勢を維持できなさそうだった。
水を渡すと、チハヤは深い息を吐いた。
「すまんな」
「一体、どうされたんですか。こんなになるまで飲んだりして」
言外に、あなたらしくないと責めた。
チハヤは白いものが増えた髪へ指を入れて、膝へ肘を突いた。
「飲まずにはいられないだろう。なぁ、マサキくん。娘が殺されたんだ」
ぎくりとするマサキの顔を、チハヤは喉の奥で笑いながら見ていた。
「こんなことになるとは、思っていなかったさ。私が甘かったよ」
クツクツと笑い続けるチハヤを、マサキは痛々しく見つめた。
怒りよりも、哀れさが勝った。チハヤの皺が刻まれた目元から口端へ流れ落ちる涙もまた、隠しようもなく見えていた。
彼の近くに膝をつき、マサキはそっと尋ねた。
「何が、どうなっているんですか」
「知るか。問い詰めたところで、末端が勝手をしたとしか奴らは言わない。今も、昔もな」
聞き返すと、チハヤは自嘲して水をもう一杯所望した。手渡すが、受け取る手の震えが酷く、三分の一は零れてチハヤの膝を濡らした。
「君はいい。若気の至りで暴走したところで、周りが目を瞑ってくれていた。それどころか、手厚く守られていた」
チハヤが一口飲んだ。
残りの水が、いきなりマサキへ浴びせられた。うろたえるマサキを、チハヤがニヤニヤ見据えてきた。
「そんなことにも気付かず、のうのうと今までよく勤まったことだ」
「チハヤさん?」
「しかも、裁きも至って公正でまっとうだ。うらやましいよ、まったく」
濡れた襟元を、乱暴に掴まれた。
ぶつけられる皮肉に、マサキは次第に苛立ちを募らせた。
何故、このような人に憧れ、尊敬していたのかと情けなくなった。目の前のチハヤは、自身の不幸におぼれるだけのだらしない男にしか思えない。ずっと息を詰めて身を隠しているだろうハジメのことを考えると、さっさと追い出してしまいたくなった。
「だったら、俺みたいに抵抗したらよかったじゃないですか。大人しく従ったりしないで、思い切り文句言って、銃殺刑でもなんでも、受けたらよかったじゃないですか」
襟から彼の手を振りほどいた。替わりに振り上げられた拳を、マサキは難なく払い落とした。
「出来るものならそうしていたさ」
刹那、チハヤの目がギラリと光った。
「君ならどうする」
今度は、床に添えていた手の袖を掴まれた。押し付けるよう引かれ、処置したばかりの傷が痛んだ。
チハヤは尚も、酒臭く息巻いた。
「上司に目をつけられ、身内に罪を着せられた挙句、実母と妻子と、どちらか選べといわれたら君ならどうする!」
突きつけられた言葉の刃は、確実にマサキの胸を貫いた。幼いサクラの涙、拷問を受け醜くただれながらも穏やかなマリの顔が脳裏をよぎった。
わずかに、袖への力が緩んだ。しかし、振りほどくことができなかった。
「ヤマトは、君の父君はうまくしてくれたよ。危険を顧みず、母を逃がし匿ってくれた。奴らの目を欺くことに、まんまと成功してくれた」
しかし、とチハヤは続けた。
「奴らの目だって、節穴のままではなかった。次に目をつけたのは、君だ」
「俺?」
「奴らは気付いたのさ。時埜村の受験生が、私の親友の息子だとな。村出身の受験生が合格するための基準を知っているか」
頭を振るマサキに、チハヤは口の端を歪めた。
「筆記実技ともに最高点を取らない限り、村から地郷公安部員は出せない。本当なら君は、筆記において一問差で二位だった。実技は文句なしのトップで、総合では確かに首席だったが、それでも本来不合格となる。そこを捻じ曲げ、奴らは君を合格させた。手中に入れるためにね」
背筋を悪寒が走った。
コウに辞めたいと告白したとき、背後に潜む闇の触手を感じた。しかし、もっと前から、地郷公安部員となるその前から、毒クモの糸はマサキに絡み付いていたのだ。
「娘のことは解放してやる。その代わりに、なにかあれば恩人の息子がどうなっても知らん、とな」
「父は、知っていたんですか」
聞かなくとも、分かる気がした。
「私からは言えなかった。しかし、薄々感じていたようだ」
帰省の時、頭に載せられた手の温もりが蘇った。ヤマトは全てを知っていたと、根拠もなく確信できた。
『当たり前を通すのは、意外と難しいぞ』
知った上で、闇に歪んだ場所に息子を投じた。
『自分の信じるように行動すればいい。それが、傍からみて馬鹿げていても、間違っていると言われても』
そこで何を期待されていたのか。期待に沿うことは出来たのか。自信はなかった。
力なく項垂れるチハヤを前にして、マサキもまた、呆然と座り込んだ。
地郷公安部員として過ごした七年間、自力で切り開いてきたと思っていた年月が実は、何者かの大きな力によって操られていただけのように感じられた。
チハヤが何か呟いた。
聞き返すため身を乗り出した瞬間、白刃が閃いた。
瞬時に身を引いたが、遅かった。床に突いていた右の手の甲に鋭い痛みが走った。
真新しい包帯がスッパリ斬られ、斜めに引かれた赤い線から血がしたたる。
飛びのくと、ナイフを構えるチハヤの目には、より強い怒気が、殺意に近いものが揺らめいていた。
「君を、奴らに渡すわけにいかない。これ以上、言いなりになってたまるか」
真っ直ぐ切っ先が迫った。
泥酔していたにもかかわらず、動きが鋭い。一方のマサキも必死に逃れるが、かなりの高熱に眩暈を覚える。
繰り出される刃をかわすのが精一杯だった。
刃が掠め通り、袖が裂ける。ふらつく足をどうにか踏みしめたものの、壁が間近にあった。
これ以上は逃げられない。
肩をつかまれ、壁に押し付けられた。
「チハヤさん」
懇願するが、悪いものに憑依されたように、チハヤのナイフが振りかざされた。
見開かれた目は血走り、唇がめくれるほど食いしばられた歯がむき出される。凄まじい形相に、マサキは彼からの憎悪と怒りを思い知った。
指摘されて尚、誰にどのようなとき庇ってもらったのか心当たりがない。守られていると気が付きもせず、自分が正しいのだと疑わず主張するマサキを、チハヤがどれだけ苦い思いで見てきたのか。
刺されて当然のように思えてきた。
狙いは頭部か、胸部か。
どちらにしても体のどこかへ刃が突き立つと覚悟して、マサキが全身に力を入れたとき。
チハヤが振り返った。ナイフが止まる。枕がボフリと床へ落ちた。チハヤの唇が、微かに動いた。
サクラ
目は呆然と、怯える少年を見つめていた。
寝台の脇に、ハジメは立っていた。マサキの危機を救おうと咄嗟に飛び出し、枕を投げつけたのだろう。しかし、チハヤの血走った目に捉えられ、恐怖のあまり動けず、ただ震えて立ち尽くしていた。
「出てくるなと言っただろう」
マサキが怒鳴ると、ハジメはビクリと体を震わせ、目を潤ませた。叱られたことに対して唇を噛み、喉を痙攣させた。
チハヤの腕がゆっくりと下がっていった。指先から力が失われ、ナイフが滑り落ちた。
マサキは渾身の力を振り絞って彼の脇をすり抜けた。
我に返ったチハヤが、ホルスターへ手をかける。
マサキは倒れこむようにハジメへ覆いかぶさり、小さな体を胸へ抱え込んだ。
銃声が響いた。
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