Ⅰ-4 懸念に満ちた始まり

 マサキは、草の上に立ち、大きく息を吸った。空気には、雪の匂いが残っている。村を離れて半年しか経っていないというのに、懐かしさが溢れてきた。


 空の近さ、澄み具合も町とはまったく違う。今日は晴れている。夜になれば、満天の星空が広がるだろう。しかし、近道を使っても尚、星を眺める時間まで滞在できないのが悔やまれた。


 異動に伴う休暇は三日しかなく、一日は仮配属されていた蔵場くらば町から東守口町の官舎への移動で費やされた。出勤までに町の様子を把握しておきたければ、帰省に費やせるのは今日一日しかない。


 提げていたランプの硝子カバーを上げると、火を吹き消した。油の匂いが風下へ流れ去る。いましがた出てきた地中の穴を後にして、こわばった体をほぐした。


 尾根道を登っていくと、いくつもの廃屋がつる草に覆われ、半壊状態になっているのが目についた。

 現在時埜ときの村にすんでいるのは、ヤマト夫妻だけになってしまった。その彼らも、マサキが村を出る日、春には山を下ると話していた。


(坑道も、崩れてるところが増えてたな)


 管理をする者がいなくなれば、坑道も近い未来、朽ちて崩れてしまうだろう。

 ゆっくりと、しかし確実に変わっていく故郷。しみじみとついたため息が、白く風に靡いた。


 いきなりマサキは、前に踏み出した右足を左へ踏み込み、体を反転させた。数歩先で、男がびくりと立ち止まる。


「ずっと、つけてただろ」


 あきれ半分、怒り半分で睨むと、ヤマトは悪びれず、大きな荷物を担ぎ直して大股で近付いてきた。


「振り向かないから、うまくいっていると思ったが」


 ニヤリと、髭に囲まれた口がゆがむ。乾いた頬に皺が刻まれた。

 マサキは、やや大げさに息を吐いた。


「親父だって分かってたから、無視してただけだ。途中でその荷物を押し付けられても困るし」

「丁度、麓に美味い肉とチーズがはいったと聞いたし。お前も本配属前に一回は顔を出すんじゃないかとな」


 ぐははと笑い、ヤマトは軽い足取りで坂を上る。健脚は衰えていないようだ。


 内心安堵しながらも、マイペースな彼に振り回される自分のふがいなさに舌打ちする。


 畑を囲む柵を越え、マサキは父親を呼び止めた。


「先に、寄っていいか?」


 視線で、家と並んで建つヤギ小屋を示した。ヤマトはあっさり頷くと、上着のポケットから鍵の束を出した。目の高さに掲げ、顔をしかめながら形のよく似た鍵を見比べた後、ひとつを外して投げて寄越す。


「すっかり片付けちまったけどな」


 ヤマトの言葉通り、足を踏み入れた小屋は、壁際に農具が数個かかっているほかは何もなかった。薄く積もった埃が小さく舞い上がる。最後のヤギが寿命を全うして久しい。


 奥の壁と床の間へ手を添えると、軽く押した。音も無く壁の一角が持ち上がり、大人が一人ようやく身を滑り込ませるだけの入り口が開ける。先には、暗がりに飲み込まれた階段が続いていた。

 身を屈めて潜ると入り口は再び沈黙のうちに塞がり、あとはもう、自分の鼻先すら見えない闇に包まれる。

 

 段数を数えながら下りていき、手を伸ばすと扉に触れた。預かった鍵を手探りで差し込みノブを回すと、淡い光が目を射した。


 かつてサクラの祖母を匿っていた部屋は、ただ直方体のがらんとした空間に成り果てていた。


 行方をくらましたサクラが身を置きそうな場所として真っ先に浮かんだのが、この部屋だった。しかし、部屋にこもった空気が、彼女の不在をはっきりと証明している。


 壁に触れる。天井付近の採光窓から射し込んだ淡い光が、白っぽい壁に壁掛けの痕を浮かび上がらせていた。サクラの祖母が若いとき縫ったキルトがかかっていたところだ。


 サクラと出会い、過ごした時間が、五感を通して蘇る。


 崖から滑落した彼女を背負ったときの軽さ。

祖母を亡くした悲しみに声をあげて泣いていた、震える肩のか細さ。

初めて触れた唇の冷たさ。

重ねた肌の滑らかな温もり。


 全てがこの空間にあり、淡い光の中に散ってしまったように感じられた。


 戸口でカタリと音がする。


「何を感傷にふけっているのやら」


 ヤマトがニヤニヤと顔を出した。


「別に」

「サクラちゃんなら居ないよ。お前が町に出た日に、荷物を片付けて出て行ったからな」

「だから、サクラのこととか、考えてないよ」


 口では言い返しながら、顔が火照っているのを自覚できた。


「いよいよ親父も隠居かな、て」


 息子の嫌味をサラリと流し、ヤマトは会得顔で頷いた。


「留まる意味もなくなった。それに、お前が出た後、領主が交代してな。先代と違って何かとうるさいんだ。坑道のことも探りを入れてきやがる。予定より早く、下っちまおうって話してるんだ。農繁期に借りていた家を覚えているか? 新居はあそこだ」

「睨まれるようなこと、してるのか?」

「身内の罪まで被らないといけないから、お前も枕を高くして寝れないな」


 ヤマトは笑うと、立てた親指で頭上を示した。


「飯、食っていくんだろ?」




 テーブルには、ヤギの乳で煮込んだスープを並々と注いだ椀があった。幼い時からのマサキの好物だ。


 その他に、ヤマトが仕入れてきた肉にスパイスを振ってこんがり焼いたものや、粗く挽いた雑穀をまぶして焼いた薄いパンなどが並んだ。


 そこへ、コウに教えてもらった店で買ってきた米の酒を置いた途端、ヤマトの目がらんらんと光を放った。


「うちのバカ息子がこんな上等なものを買ってこれるようになったとは」

「バカは余分だ。飲まさないぞ」

「いえいえ、偉大なる地郷公安部員のマサキ様。ありがたく頂戴いたします」


 栓を開けると、芳醇な香りが漂う。匂いの一分子まで吸い込もうと鼻腔を広げる父に苦笑しながら、淡い琥珀色の液体を注いだ。

 一口啜ったヤマトの顔が、たちまち溶ける。


「いいねぇ。たまらん」

「受験に関しては、税が厳しい中、時間と金を出してくれて、その、ありがとう」


 精一杯照れを堪えて口にすると、ヤマトは危うく貴重な酒を噴出しそうになった。


「真面目腐って何を言うか。こぼしちまったじゃないか勿体ない」


 いじましくテーブルに垂れた酒を指にすくって舐めようとするヤマトを、母が軽く嗜めた。


 肩をすくめ、マサキは懐かしい母の手料理を口にした。


「だけど、本当なら、村の他の子みたいに領主の畑とかやらなきゃいけなかったのに、どうして二つ返事で勉強させてくれたんだ?」

「ま、正直言って、本当になれるとは思わなかったけどな。しかも、一発合格で首席だ?」


 ヤマトの手が、肉片の最後の一切れへ伸びた。母がその手をぴしゃりと止め、マサキの近くへ肉の皿を寄せた。未練がましく最後の酒を注ぎながら、ヤマトの顔は首まで赤くなっていた。


「すべて、マリさんのお陰だな。教本の手配から手習いから受験料から」


 最後の一言にマサキはあやうく、パンを落としそうになった。


「亡くなる何日か前に、渡されたんだ」

 ヤマトが、グラスの上で空瓶を逆さにかざす。

「俺は断ったよ? 見返り欲しさにしたことじゃないってね。だけど、ただお礼をしたいだけだなんて言われたら、断るほうが失礼だろ」


 最後の一滴まで粘りながら、父は母に目配せをした。頷いた母が、奥の部屋から油紙の包みを持ってきた。マサキの脇に置かれた紙包みは、結構な厚みがあった。


「残りだ。持って行け」

「いい、のか?」

「遠慮するな」


 マサキは、呆然と包みを見下ろした。表に、懐かしいマリの手でマサキの名が記されている。


 彼女の顔の半分は拷問で醜くただれていたが、残る半分にいつも柔和な笑みをたたえていた。己に酷い仕打ちをした息子を責める言葉を、彼女の声で聞いたことがない。


 ふと、長年の疑問が口をついた。


「あんな酷い拷問受けるほど、マリさんは悪いことをしたんだろうか」


 す、と父の顔から笑みが消えた。身を乗り出し、小ぶりとは言え、相当な濃さの酒を一瓶飲み干した人間と思えない静かな声を低めた。


「連行されたのは、ひとつの垂れ込みからだったらしい。昔、中央研究所員から受け取った、ある文書を持っている、とね」

「どんな?」

「知らん。公安本部は、チハヤたちが前に住んでいた家を解体してまで探したらしいから、余程都合の悪いことだったのかもしれん。何がどう、お偉いさんの都合に合わなくなるものか、俺には分からん」


 だけど、とヤマトは続けた。


「お前は、そういうお偉いさんのためじゃなく、俺たちしがない貧乏人のための公安部員を目指しているんだったな」

「うん、まあ。て、それ誰から聞いたんだよ」

「当たり前を通すのは、意外と難しいぞ。それに、昔から言ってるが、くれぐれもマリさんやチハヤんとことの関係を人に知られるようなことはするな」


「あれだけ世話になっていながら?」


 マサキはため息をついた。マリには、手習いから入試勉強まで細やかに見てもらった。チハヤは、地郷公安部が払い下げる拳銃を手配してくれた。彼らがいなければ、マサキはどんなにがんばっても地郷公安部員になれなかっただろう。


 しかし、ヤマトは、当然だと頷いた。


「ま、がんばるんだな」


 ヒョイと、マサキの頭に手が載せられた。節くれだった、大きなヤマトの手だ。


「あとは自分の信じるように行動すればいい。それが、傍からみて馬鹿げていても、間違っていると言われても、な」


 そのまま、ワシワシと撫でられた。 

 父親に撫でられたのは、いつ振りだろうか。そう思うと、恥ずかしさがこみ上げてきた。


「やめろよ。ガキじゃないんだから」

「いくつになっても、俺たちから見たらお子様だよ。お前もサクラちゃんも」


 そうねと、母も同意して微笑む。


 温かかった。サクラが再々この家を訪れ、十三で学問所を卒業してからは何日か滞在するようになったのも、今なら分かる気がした。


 ヤマトが一度、娘を連れ戻しに来たチハヤへ冗談半分で言ったことがある。いっそ、サクラをうちの娘にしようか、と。

 その時のチハヤの、困惑した顔を思い出してマサキは軽く笑った。


「本当に、サクラの居場所に心当たりはない?」

「お、それは任意聴取だと捉えていいのか? それとも、取調べか?」


 おどけるヤマトは、いつものふざけた髭親父に戻っていた。顎の髭を指先でねじり、ふんぞり返ってマサキを見下してくる。


「本当に知らないが。知ってどうする。彼女の人生だ。お前がどうこう口を挟む隙間なんて、これっぽっちもないんだから」

「そりゃ、そうだけど」

「ま、俺たちも心配はしてるさ。無茶しなければいいけど、ってな」


 母が、パンや干し肉の残りを包んで持たせてくれた。片付けられたテーブルには、窓から落ちる影が長く伸びている。下山しなければならない時間が迫っていた。


 尾根を越える前に、マサキは一度振り返った。長年暮らした小屋は、変わらず細い煙を煙突からたなびかせている。

 次に帰省する先は、麓の家だろう。


(見納め、か)


 育った村が完全に消えてしまうことに、感傷的になった。


 寂しさを振り切るように、大股で下っていく。来たときより少し重みを増した荷物を担ぎ直し、曲がりくねった道の跡を辿る。




 東守口町に戻り、マサキは時計塔を見上げた。


 広場は、地郷公安部の単身者用官舎が立ち並ぶこの通りの先にあり、文字盤がすえつけられた塔の上部は並んだ屋根から突き出すように見えていた。

 文字盤は豆粒大に見える。射撃の審査でも指摘されたが、マサキの視力は一般の地球人種に比べ各段に遠くまではっきり見えるらしい。山育ちのためだろうか。この距離からでも、時計の針がどの数字を指しているか、読み取ることが可能だった。


 まだ夕刻の早い時間だ。

 マサキは足を止め、しばらく頭の中で計算した。


 サクラは数年前、チハヤの転勤に伴って、科研町の官舎から南部の栄田さかた町へ移ったはずだ。もしかしたら、チハヤを赦し、家族官舎に戻っているかもしれない。

 可能性は低いが、サクラに繋がるものは、それしか考えられなかった。


 今から走れば、日が変わる前に着ける。朝に訪れたなら、新しい管轄の町を半日は見て回れそうだ。

 が、さすがに疲労は溜まるだろう。


 とりあえずは、母に持たされた食料を官舎へ置きに戻るのが得策かと、マサキは意を決して、昨日指定された建物へ向かった。


 視野の端に白い制服が入り、挨拶をしようと顔を上げたマサキは、思わず駆け寄った。


「チハヤさん」


 すらりと背が高く、引き締まった立ち姿は紛れもなくチハヤだった。以前会ったときより髪に白いものが増えていたが、マサキは喜びに胸が震えた。


(チハヤさんも、東守口に)


 サクラも共に、この町に来ているかもしれないという期待がわいた。


 しかし、いきなり頬に走った痛みが、マサキの目を覚まさせた。顔を上げると、チハヤの冷たい目に見下ろされていた。


「貴様、明後日から配属の新人だろう。上司に対する口の利き方を知らないはずはないな」


 反論できなかった。素直に深く頭を下げ、謝罪する。強く胸倉をつかまれ、身を引き起こされると、怒りを含んだ小声で囁かれた。


「忘れたか。君と私は、赤の他人だ」


 そのまま通りに投げ出されるように手を放され、マサキはよろめいた。

 その間に、チハヤはマサキと数軒離れた単身者用官舎へ入ってしまった。鍵がかかる音が、異様に大きく聞こえた。


 チハヤの言葉が、鋭い棘となってマサキの耳に残った。

 ヤマトから言い聞かされていたときと比べようのない重大さでのしかかってくる。


 輪郭の不明瞭な何か暗いものが体にまとわり付いているように思え、マサキは身震いをした。


 マリが存命の間、彼女のことを他言しないよう言われていたのは、拷問の痕がおぞましいからだと思っていた。受験の直前にヤマトから念押しされたときは、ぼんやりとした疑問を抱くに留まった。


 しかし、チハヤの気迫は、もっと重大な何かを孕んでいた。それが何なのか掴めないまま、ぼんやりと、サクラが求婚を断る理由に繋がっている気配だけ感じとれた。


 口の中に血の味が広がる。

 周囲に人影は無かったが、上司にきつく叱られた部下がするように再度深く謝罪の礼をして自分の官舎へ戻るべきだろう。


 苦い思いが、マサキの中に凝っていった。

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