Ⅸ-4 ここから始まる

 時埜村の元村役場。それが、ミツキの記した住所が示す場所だった。


 他の家屋より大きく頑丈に建てられた役場だったが、長年放置された結果、生い茂る草に半ば埋もれていた。

 茎や葉の折れた草が細く建物へ続いている。何人もの人が通った跡だ。


 じっとりと掌を湿らせる汗を上着の裾で拭い、マサキは呼吸を整えた。敢えて身を隠さず、堂々と建物へ踏み出す。


 罠かもしれない。

地郷社会から隔絶されたこの場所で殺されたところで、人知れず土になるだけだ。建物にいるのは何人か。今にも、銃弾が飛んでくるのか。ハジメが捕らえられているかもしれない、いや、もうすでに。


 様々な悪い予感が、幾度もマサキの足を引いた。しかし、マサキはその度に胸の息を吐き出し、無理やり顔を上げて草を掻き分けた。


 一発の銃弾も、一本の矢も飛んでこなかった。静まり返った建物の扉を前に、マサキはしばらく逡巡した。

 分厚い木の扉は、ひび割れているものの、重厚さを失っていない。黙って開けるべきか、ノックするべきか。


 呼吸をするのも憚られる静寂は、錆びた蝶番の軋みによって破られた。マサキは微動だにしなかったが、全身で警戒した。


 窓を塞いであるらしく、開いた扉の中は闇に満ちていた。銃口と共に、目以外に布を巻いた顔が突き出された。マサキを認めると、顎をしゃくって入るよう促す。


 マサキは唾を飲み込んだ。


 闇へ、踏み込む。扉が閉まり、視界を奪われる。


 いきなり横から襲い掛かられた。

 至近距離から聞こえる人物の声に、マサキは突き出した拳を慌てて引いた。


(いや、そんなわけは)


「まーくん。ンもぉ、会いたかったよー。怪我は大丈夫か? 心配したよー」


 べたべたと必要以上に擦り寄ってくる鳶色の癖毛にくすぐられ、マサキは相手の腕を引き剥がした。


 窓が一部上げられた。差し込む光に浮かぶ長身は、紛れもなくコウだ。


「どう、して?」

「霊魂じゃないから安心しな。まーくんと違って、俺たちは死んだことにでもしなきゃ抜けられないからね」


 笑うコウに促され、マサキは強張ったままゆっくりと室内を見回した。


 役場のエントランスだった場所に、数十名の人々が居た。扉を開けた人物も布を解き、マサキに笑いかける。支部は異なるが、見たことのある地郷公安部員だった。


「私の夫よ」


 側に立つのは、東守口支部二班通信士のサラだ。彼女の背に隠れるように、黒髪の少女が片目だけを覗かせた。


 他にも、見知った顔があった。コウの手が、そっと肩に載せられた。


「地郷の今に疑問を持っているのは、マサキだけじゃないんだよ」


 奥に続く扉が軋んだ。

 お、と声をあげ、コウが大袈裟に両腕を広げた。


「我らの頭領がお出ましだ」


 暗がりからのっそりと現れた姿に、マサキはまたもや開けた口を閉じられずに立ち尽くした。


「支部長」

「肩書きは捨てた。カイジュと呼べ」


 変わらず表情の乏しい顔が命じた。首の辺りに火傷がみられた。カイジュは、抱えていた布の塊をそっとマサキの腕へ移した。

 もぞもぞ動いた大きめの上着から、細い腕が突き出された。


「ハジメ」


 夢中になって上着を掻き分けると、眠そうな少年もマサキを認め、たちまち涙目になる。小さな手でマサキの首元を掴み、無言で顔を押し付けてきた。さらに細く、軽くなった体は、怪我をした片手で易々と抱えていられるほどだった。


「お前たちを、あのような危険な目に遭わせるつもりはなかった。だが、護衛につけていた者が副本部長の手先に倒され、救助が遅れた。それに、サクラのことも、力及ばず」


 すまない、と頭を下げるカイジュの後ろから、医者のレンが穏やかに付け加えた。


「幸い、ハジメは怪我をしていない。強いて言えば、後頭部に瘤が出来ているくらいだ。だけど、あまり食事に手を出さなくてね」


 サクラのことをカイジュの口から聞く驚きも、完全に麻痺していた。状況に思考がついていかない。マサキはただ相槌を打った。

ハジメを側の椅子に座らせようとした。しかし、小さな手はより強くマサキの服を握り締め、いやいやをしながらしがみついてくる。


「あーあ。完全にまーくんを取られちゃった」


 コウが拗ねた声を出し、周囲の笑いを呼んだ。


「でも、どうして支……カイジュ、さんも?」

「呼び捨てで構わん」


 ギロリと動く三白眼の迫力も相変わらずだ。何も変わらないのにいきなり呼び方を変えろと言われても、マサキは戸惑うばかりだった。


「敵を騙すなら味方から、だ。お前の演技の下手さには失望していたからな」

「だいぶ酷く殴られたりしましたが、あれも演技だと?」


 真一文字に結んだ口の下で喉仏を上下させるカイジュに代わって、コウがニヤリとした。


「迫真の演技だっただろ」

「迫真どころか、本気で殺意を感じましたけど」


 誰も彼もに騙されていた。知らぬは己ひとり。孤独に追い込まれていると勘違いしていたことが無性に悔しく、また可笑しく、マサキは表情を決めかねた。


 改めてマサキは室内に集う顔を見回した。元公安部員、役人と思われるきっちりとした身なりの者、日に焼け手指が黒ずんでいる村人。

 マサキの困惑を察したように、カイジュが側に立った。


「ここにいるのは、ほんの一握りだ。もっと多くの人が、思いを同じに立ち上がってくれた。ほとんどが、セオが繋いでくれた絆だ」


 言葉にしてはならない思いを抱える人々を見出し、同じ思いの人が他に居ることを、セオは伝え続けていた。

 彼の死後も静かに広がった繋がりがやがて網の目のように地郷を覆い、今回の動きになった。引き金は、マサキを近衛に「抜擢」しようとする本部の動きだった。


 室内を見回すカイジュが、僅かに目を細めた。


「本来なら、チハヤもここに居るはずだった」

「ノリナさんが、暴動の首謀者はチハヤさんだと」

「そうではない。だが、あのような結果となり、死亡した彼に罪を被せることで、捜査を打ち切る流れを作ろうとしてくれているのだろう」


 強面を撫でる乾いた手の一部が濡れていた。マサキはそっとカイジュから目を離し、問うた。


「いったい、どなたが。私……俺は鈍くて、全然気が付かなくて」


 項垂れると、ハジメが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「ミツキだ」


 受け取ったメモの文面が、目の前にくっきりと浮かんだ。


「彼は立場上、我々に加わることは出来ない。事後処理の細工をして我々を解き放った後は、地郷公安部の幹部候補として、ミカドの治世を乱す者を厳しく取り締まるだろう」


『貴様の道を行け』

 自分は、自分の道を歩む。書かれていない彼の心を読んだ気がして、マサキは唇を噛んだ。


「私も、ついてくるのはここまで」


 サラが声を低めた。離れたところで夫と手遊びをして笑う娘を愛しそうに見やる目に、悲しみが溢れていた。


「ああ見えて夫にはテゥアータの血が流れているの。娘のリオも、目立たないけど形質が見られる。だけど上の息子たちは地郷公安部員を目指しているし、妹は幹部候補生と家庭を持っている。どちらも見捨てることが出来ない」


 それに、と彼女はハジメの頭を撫でた。


「内部に残って情報を提供する仲間がいても便利でしょ? あまりたいそうなことは出来ないかもしれないけど」


 引き裂かれる家族を思うと胸が痛んだ。どうして、と言葉が漏れ出た。


「何故、地郷はこんなことになったんですか」

「まずはそれを知るために、俺たちは集まったんだよ」


 コウが片目を瞑った。カイジュもまた、力強く頷く。


「そして、変える。誰もが平穏な日常を送ることが出来る地郷を目指す。マサキも、共に来てくれるか」


 俺は、と口にした後が続かなかった。考え込むマサキを案じて、ハジメが眉の端を下げた。ようやく喉を震わせた声は、呟きにしかならなかった。


「俺は、ここに居ていいんですか?」


 聞き返される。ふいに涙腺が緩んだ。サクラの、セオの、チハヤやシズク、フタバ、ヤマト。様々な人々の顔が浮かんで消えていった。


「俺は自分のことしか考えてなくて。そんな、地郷を変えたいとか、思ってなくて。ただ、サクラが遺したハジメを、ただ守らなくちゃいけないと。それだけで」

「まちゃ」


 流れる涙を、小さな手が拭いていく。心配させまいと奥歯を食いしばるが、涙は止まらなかった。

 背中をさすってくれるコウの手が温かい。


「あっしらも、そうですよ」


 近くにいた村人が微笑んだ。そうだそうだと、複数の顔が頷く。


「そうでなけりゃ、命を賭けようなんてとてもじゃないが出来ませんよ」


 赤子を抱いた女性が、眠る赤子の柔らかな頬を指で撫でながらマサキを見上げた。赤子の髪は、暗い緑色だった。


「この子が安心して生活できる未来が、欲しいだけなんですよ」


 未来。

 目前に、陽の光の中、思い切り走り回るハジメの笑顔を見た気がした。一瞬にして消えた幻は、鮮やかにマサキの胸へ焼きついた。


 みんなの笑顔を守る人に。

 「みんな」の定義も「守る人」の種類も、あの時と異なる。しかし、長い回り道の末、ようやく今、約束のスタート地点に辿りつけた。


 マサキは深く息を吸った。ハジメを抱えなおし、深々とカイジュへ、そして集う人々へ頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 さざ波のように拍手が広がった。どこからか食料が運ばれ、様々な形の杯が掲げられた。


「戦いに倒れた同志の魂の安らかなることを祈り、マサキの無事を祝って」


 厳かに行われる乾杯の後は、三々五々皿を囲んだ。元地郷公安部員、役人、村人といった人々が、同じ円陣で談笑する光景を、マサキは不思議な思いで眺めた。


「シズクちゃんも、居たらよかったのにな」


 呟くコウの目は、心なしか潤んでいる。その肩を、カイジュの大きな手が優しく叩いた。



 コウが、リンゴを手に戻ってきた。取り出したナイフで器用に皮を剥き、果肉を削ってハジメへ差し出す。ハジメはリンゴの小片を見て、マサキを見た。マサキが頷くと、最初はそっと、次からは夢中になって食べ始めた。


「安心したんだな。まーくんと会えて」


 しばらく続けてコウが差し出すリンゴを食べていたハジメが、ふと口に入れかけた小片をマサキへ差し出した。


「いりゅ?」

「あ、いいなぁ。ハー坊、俺にくれよ」


 嬉々として顔を近づけたコウを、果汁でべたついた手が押しやる。一人前に睨みつけ、あくまでもマサキへリンゴを差し出す。


「あぁ。完全にまーくんとられた。言っとくけどな、ハー坊。俺のほうがずっと付き合い長いんだからな」


 わざとムキになるコウの態度に、ハジメは訝しげにコウを睨んでいた。そんな彼の小さな尻を右肘に載せるように抱え直し、マサキは苦笑した。


「今更だけど、なんで『まーくん』なんだよ」


 口に含んだリンゴはぬるかったが、爽やかな甘酸っぱさが広がる。芯を取り除いた残りをハジメに持たせると、コウはナイフを拭いた。


「マサキは、俺の弟だったんだよ」


 咄嗟に意味をとれず、危うくリンゴを喉に詰めかけた。ナイフを収めたコウの鳶色の目は、遠くを見ていた。


「年が近くて、兄弟の中で一番仲が良かった。正義感が強くて、曲がったことが嫌いで。相手がどんな大人でも構わず突っかかってボコボコにされて。実戦訓練で会ったときから、似てると思ったんだ。きっと、こんな風になってただろうな、て」


 おもむろにコウはマサキの足元へ跪いた。ホルスターから銃を抜き、銃把をマサキへ、銃口を己の胸に向けた。


「今度こそ、俺、コウに『マサキ』を守らせてください」


 去来する想いに、言葉が出ない。


マサキはただ頷き、左手に銃把をとった。質量以上の重みが手の中に入った。

 上がった撃鉄を解除し、銃身を持ってコウへ銃把を差し出す。


「よろしく、頼む」

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