エピローグ

いつか、咲きほこる花の下で

 まどろみの中でサクラが呼んでいる。


『ほらマサ、起きて』


 夢だと、分かっていた。

 けれど、思い出の中の彼女を少しでも長く感じていたかった。柔らかな肌、緩くうねる栗毛の感触はもう、夢でしか味わえないのだから。


 瞼を上げるのを拒んでいるうちに、声は次第に近くなった。体が重い。


「起きろってば。ねぇ、いい天気だし」


 間近から怒鳴られ、渋々目を開けた。焦点を合わせられない近さに金色の双眸が煌いている。声変わりが遠い少年の声は、ぼんやり聞いているとサクラによく似ていた。


 重いはずだ。小柄とは言え、十歳の子供が仰向けに寝ているマサキの上に載っている。それもただ載るのではなく、両手両膝を使ってしっかりと関節を決められていた。お陰で振り落とすこともできない。請われるままに片端から護身術を教えたことを後悔した。


「あんまりに起きないから、メシ作っといたよ」

「明け方まで詰めてたんだ。もう少し寝かせろ」


 意地でも目を閉じようとしたが、ハジメはマサキを押さえ込んだまま、体を揺らして負荷をかけてきた。


「起きて、てばもう」

「いいや、寝る」

「あ」


 ふいにハジメが動きを止め、喉の奥で笑った。


「母さんの夢、見てたんだろ」

「な」

「涎、出てるもん」


 慌てて口元を拭おうにも、筋肉の微動を感知され、動かすより先に押さえ込まれる。それでも足掻くと、ハジメはきゃらきゃら笑いながら飛びのいた。


「うっそー。な、目が覚めただろ? 母さんの花が咲いてるんだよ。見に行くって、約束したじゃん」


 寝具から続く床に胡坐をかき、今度は毛布を引き剥がしにかかってくる。負けじと巻き込んだ毛布を握り、背中を向けた。

 意地でも拒む。


次第にハジメの声が緊迫してきた。声に湿り気が増え、ミノムシと化したマサキを両手で揺さぶる。

寝不足で軽く頭痛がする。子供特有の金属質な声がうるさく感じられる。激しくなる揺さぶりに苛立ちを覚え、大人気ないと思いながらマサキは声を荒げた。


「咲いてるったって、まだ少しだろ。明日だっていいじゃないか」

「だけど、明日はどうなるか分か……」


 息を呑んだのは、ふたり同時だった。

 振り返ると、ハジメは罰が悪そうに顔を背けていた。


「だから、ほら。急に雨が降るかもしれないし、マサの仕事、入るかもしれないし」


 しどろもどろに言い訳をしながら、襟元で細い鎖を指に絡めては解く。

 マサキは、重いため息をついて起き上がった。


「分かった。起きる」


 途端に、ハジメは顔を輝かせた。ぴょこんと跳びはねると、さっさと机に置かれた鞄を手に取る。


「そうだ。この前もらったリンゴ、持って行っていい?」

「重くなるぞ」

「大丈夫。俺、ちゃんと持つから」


 どれにしようかなと、歌うような声を背中で聞きながらマサキは服を手に取った。


 十歳。そのころ自分は、何をして、何を思っていたか。


 サクラと出会い、チハヤに憧れ、将来自分も地郷公安部員になるのだと希望に溢れていた。ヤギの世話をし、薬草を求めて崖を登り、疲れて夜眠れば、次に目を覚ましたところに明日は当たり前のように訪れていた。


 同じ十歳にしてハジメは、明日がないかもしれないと身に染みて知っている。


 地郷におけるテゥアータ人の扱いは相変わらずで、見つかり次第通報され、その場で処刑される。

 マサキたち「カゲ」と呼ばれるようになった集団が、身元を隠し民に紛れ救済に努めているが、それよりも残虐な征伐を下す「狩人」を支持する民のほうが多い。「狩人」は裏で地郷政府からの援助も受けているようだ。

 その政府もまた、得体の知れぬ大きな力に操られている気配があった。


 中央研究所のデータを盗み検証した結果、地球人種のテゥアータ化は環境に応じた変化であることが分かった。自然消滅の運命を受け入れがたく、やり場のない不安と恐怖を罪のないテゥアータ人へぶつける行為は認めがたいが、感情として分からないでもない。


 その中で、ハジメの存在は、「カゲ」にとって一縷の希望であると共に、「狩人」にとって消さねばならない恥辱だった。


 嫌悪と怨恨をぶつけられ、刃や銃弾を突きつけられる。今この次の瞬間に、穏やかな情景が一転血に塗れるのは珍しいことではない。味方と信じた者に裏切られ、己を庇って仲間が命を落とす。


 日常化された惨劇を乗り越えるごとに、そうでないときの振る舞いが明るくなっていくのが痛々しい。


「ねぇマサキぃ。まだぁ?」


 すっかり身支度を終え、荷物も背負って机に座り足をぶらつかせるハジメに呼ばれ、マサキも荷物を手に応えた。




 尾根の桜は、ハジメが言うとおり、蕾をほころばせていた。淡く澄んだ空を背景に、しっとり黒ずんだ枝と淡い花弁が凛と浮かび上がっていた。


「ね、綺麗だろ」


 結局荷物を全部マサキに持たせて身軽に駆け上がる少年を忌々しく睨み、マサキは斜面に腰を下ろした。


「はい、これマサキの」


 取り出された食事は、焼きしめたパンを薄く切り、やはり薄く切ったチーズと食用の野草を挟んだだけの簡素なものだった。パンもチーズも均一の厚さに切られている。その辺りの器用さは、父親から譲り受けたと思われた。


「ね、リンゴ先に食べていい?」


 ダメだと言ってもどうせ聞かない。そのくせ、最終決定は人に下させようとする。なんのかんの言っても普通の十歳と変わらない憎らしさに、マサキは苦笑した。


 リンゴは、先日仲間からもらった。秋に収穫したものを保管してあったため若干風味が落ちていたが、食料を手に入れるのも困難な生活では嬉しい代物だった。


 パンを食べるマサキの側で、ハジメはまだ小さな両手にリンゴを挟んで嬉しそうにかぶりつく。食べ進んでは形を確認し、乳歯が抜けたばかりの口をつける場所を選んでいる。


 変な食べ方をしていると気が付いた矢先に、歯型だらけの半欠けリンゴが差し出された。


「じゃあこれ、マサキの」


 なにかと人と分け合って食べたがるのは、幼い時からの癖か。作った笑顔で受け取ると、ハジメは新しいリンゴを鞄から取り出した。

 しかも両手にひとつずつ掴んでいる。


「まさか全部半分にするのか?」


 どうりで重かったわけだと合点しながら、マサキは引きつる頬を誤魔化しながら極力穏やかに問うた。


「え、だって、せっかくだからマサキとも食べたいけど数が足りないなと思って」


 意味を取りかねていると、ハジメはリンゴを抱えて桜の根元へ駆けていった。


 尾根を越えれば、遠い眼下に地郷の町並みが広がる。しかし、樹齢百年はゆうに越える太い幹は尾根のこちら側にあった。


 いつしか「カゲ」の墓標となった樹の根元には、様々な人の想いが眠っていた。

 マリの亡骸、ヤマト夫妻のランプと鍵束、サクラの櫛と、セオの外套から縫われた小さな袋など。


 その、掘り返した土のまだ黒いところにしゃがみ、ハジメはひとつのリンゴを置いた。


「これは、父さんと母さんの」

 そして、もうひとつを並べる。

「あと、みんなの。少ないけど、喧嘩せず分けろよ」


 風が、マサキの心をも揺らした。


『被害を最小限にする。それが、カゲの信条だろ。……走れ』

『すまない。せめて最期は君の手で』


 耳に蘇る、彼岸へ渡った人々が遺した声。


 花を見上げて立つハジメの後ろ姿が途端に儚く見え、マサキはそっとその細い肩に手をかけた。

 ねえ、と発せられたハジメの声は、風に千切れて掠れていた。


「マサは、俺を置いていかないよね?」


 髪を隠すため深く被った帽子の陰になり、ハジメの顔は見えない。しかし、肩口に落ちた水滴からマサキは目を反らせた。


 気休めの言葉は、口に出来ない。甘い約束で誤魔化せる相手ではない。


 地郷の現状がすぐさま改善すると思えない。彼を一秒でも長く生かそうとするなら、自分はこの子の前で絶えるのだろう。かといって、辛い想いに辛い現実を塗りこめる冷酷さを装えなかった。


 無言で、マサキは荷物から一丁の銃を取り出した。少年の両の掌へ置いた。


「これって」


 ハジメの声が震える。見上げた顔には、涙の筋もそのままに、金色の眉の間に皺が寄せられていた。


 マサキは頷いた。少年が今身に付けている子供用の拳銃ではない。使い込まれ、大切に手入れされ続けてきた銃が木漏れ日を反射させた。


「使うのはまだ早いが、約束だったんだろ。今からこの銃の持ち主はお前だ」


 ハジメは唇を一文字に引き結んだ。


 少年の小さな手には、弾倉を抜いても尚、消音器など装備された銃は重すぎた。そっと手を添えてやる。


「俺は、命の限りお前を守る」


 クッと声を噛み締め、ハジメが俯いた。肩が震えていた。


「いやだ」


 聞き返すマサキの前で、ハジメは手の中で銃を回した。銃身を両手に掴む。驚き見下ろす目前に、銃把が突きつけられた。


「俺、ハジメ=セオ=グラントは、全力でマサキを守る」


 涙を浮かべた瞳が、ギラリと猛獣のように光を反射させていた。吹き上げた風が、ハジメの帽子を飛ばした。柔らかな金色の髪が揺れる。

 言葉がつかえて出てこないマサキに、ハジメは続けた。サクラによく似た顔と声で。セオから受け継いだ強い意志を込めた瞳で。


「だから、俺を庇ってとか守ってとか、そんなことで死んだら許さない。死がふたりをワカツまで、共に生きる」


真っ直ぐな眼差しに射抜かれながら、マサキはそっと腕で彼の頭を抱えて周囲から隠した。

 真剣そのものの少年に申し訳ないが、堪えきれず噴き出した。


「まるでプロポーズだな」

「え。でも、教えられたとおりだけど。マサキを守るって宣誓するなら、こう言えって」


 腕の中で慌てる少年へ拾った帽子を被せながら、マサキは肩をすくめた。


「誰に教わった」

「コウ」

「だろうな」

「じゃあ、どう言ったらいい? ねぇマサ、俺、ごめんけどマサと結婚はできないよ」

「まあ、言いたいことは分かったから」

「え、やだ。ちゃんとしたの言いたい。せっかくこの銃で誓うんだから。あーもう、コウのばか」


 苦笑が、喉につかえた。


(とんだ置き土産だな)


 溢れた涙が下の瞼を越える前に、マサキは桜を見上げた。

 風が枝花を揺らす。囁き、笑いあうようにさざめく花弁の群れをくすぐり、空へと駆け上がる。

 

「そう、だな」


 共に生きる。それも悪くない。地球人種とテゥアータ人が共に平穏に生きていける地郷を手に入れる、その日まで。


 そしていつか、咲き誇る花の下で語り合おう。全ての痛みと涙を思い出に変えて。



 サクラとの約束が果たせるのも、その時だろう。



〈了〉





最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

これでマサキたち地郷公安部の話は終わりますが、狩人と影の対立、ハジメの成長、地球人種とテゥアータ人の世界をめぐる物語は続きます。

末永くお付き合いいただければ幸いです。


かみたか さち

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いつか、咲きほこる花の下 かみたか さち @kamitakasachi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説