Ⅶ-5 寒風に花一輪
枯れた蔓草を掻き分けると、小さな流れがあった。地中でろ過された雪解け水が岩の割れ目からほとばしっている。明るんできた東の空の色を映し、暁色に染まっていた。
マサキが体を支え、サクラは流れに口をつけた。掬った水で涙と砂埃に汚れた顔を洗うと、栗毛に水がしたたるのも構わず呆然と宙を見ていた。
「だいぶ走ったけど、大丈夫か」
労わると、小さく頷いた。持ち合わせていたタオルで顔を拭いてやる間も、焦点が定まらない。
ここにはまだ冬が残っていた。凍りつくような山風は火照った体を冷やすにはいいが、いささか冷たすぎる。手にしていたセオの外套で体を包んでやると、サクラの目に新しい涙が滲んだ。
「少し、一人にさせて」
近くにあった岩棚に座らせると、鞄を抱えて顔を伏せてしまった。
マサキは一人流れへ戻り、切れるような水へ手を浸した。血の汚れが幻となって手全体に浮き上がり、何度も擦った。
あの侵入者は即死だった。
殺さなければ、マサキとサクラと、腹の中の子供が殺されていたのは間違いない。生き逃れたかったら倒すしかなかった。
分かっていても、この手で人を殺めたことに違いはなかった。彼らにもそれぞれ家族があり、愛する人もいたかもしれない。
何度も顔を洗った。鼻の先が冷えすぎて痛んでも、水を掬っては顔面に浴びせた。
岩棚へ戻ると、サクラは先ほどと全く同じ格好でうずくまっていた。心配になって肩に触れると、赤くなった鼻を擦って頷く。
「これからどうする」
サクラが借りていた隠れ家を突き止められたということは、敵に身元を知られてしまった可能性が高かった。
「セオに協力してくれてた人たちのところへ行く。テゥアータの人もいるから」
サクラを助けてくれそうな人の存在を知り、マサキは胸を撫で下ろした。
「ちょっと待ってろ」
マサキは岩棚を登った。岩の形を確認しながら数段登り、ひとつの亀裂へ用心しながら手を差し入れた。
指先が乾いたものに触れる。引き出し、状態を確認すると上着のポケットに入れた。
「使ってくれ」
差し出すと、サクラはまじまじとマサキを見上げてきた。やがて頷くと、荷物に入れながら小さな、しかし強い声で言った。
「必ず返すから」
「もとは、マリさんのお金だ。孫のサクラに使う権利がある」
帰省した折、両親を通して受け取った金だった。当面使うこともなかったため、マサキは誰一人踏み入れることのない廃村の岩場へ保管していた。
サクラは小さく頷き、でも、と言いかけた。
「ただし」
素早くマサキは彼女の言葉を遮った。
「時々無事を確認させて欲しい。無理のない程度でいい。サクラとお腹の中の子がどこかで生きていることを、俺に知らせてくれ」
神妙に、サクラは頷いた。
朝番の時間ギリギリに間に合った。安堵したのも束の間、事務室に支部員全員が揃っているのを見て、マサキはギョッとした。
「どこへ行っていた」
支部長の声が地響きのように低い。頭を下げ、急速に考えを巡らせて言い訳を紡いだ。
「余りに多くの血を見て、具合が悪くなり。気の向くままにあちらこちらを」
通用しそうになかった。
しかし、思わぬところから援護射撃が来た。三班の班長が、重く呟いたのだ。
「マサキは血に弱いな。いつも流血を見た後は精神的に危うくなる」
言下に、元二班班長だったフタバの事件やシズクの件を含んでいるようだった。テゥアータ人を蔑む彼も、仲間の死に落ち込む地球人種の部下を気にかけていたとみえる。
「申し訳ありません」
再度叩頭すると、ミツキの舌打ちが聞こえた。
支部長が咳払いをし、話を続けた。
「ということで、民家での射殺事件について引き続き捜査を行う。以上」
皆に合わせ返答しながら、マサキの背中にどっと汗が流れた。
「まーくん、顔色悪いよ。大丈夫か?」
気遣うコウが、こっそりと全体召集で伝えられた事項を教えてくれた。
セオ=グラントを「仕留めた」のは、先日ミカドの即位に伴う恩赦で釈放されたシゲであること。指名手配犯を殺害した罪は問われないこと。ただし、官僚の娘ふたりに危害を加えた罪で一年の禁錮を言い渡されたこと。
「あと、管轄の民家で射殺死体が二体発見されたんだ。犯人はかなりの凄腕と思われる。ふたりとも眉間を打ち抜かれて即死だ。身元は調査中だけど、獄中でシゲと面識があった可能性が高い」
「その民家って?」
何食わぬ顔で尋ねると、コウが地図を広げた。
「ここだけど、セオが匿われていたとみられる。借主は地球人種の女性だけど、どうやら偽名だったみたいだ」
肩の力が抜けそうになり、さり気なく気を引き締めた。
(さすがはサクラだ)
「しっかし、弓矢って、ねぇ」
アオイが横から割り込んできた。地郷全域で指名手配されていた人物の身柄を管轄内で確保したとあって、自分は全く関わっていないのに興奮を隠せないようだ。
「今時、文献にしか載っていない原始的な武器を、どうしてまた使おうと思ったんだろうな」
アオイの向かいの席で、ノリナが丸眼鏡を押し上げた。
「そうでもないわよ。北部の隠れ里、知ってる? あそこでは今でも使われているって。もっとも、殺傷能力は低くて、渡り鳥を狩るとき使われる程度で」
そういえば、とサラが付け加えた。
「彼の釈放の条件に、銃器所持の禁止があったはず。だから、飛び道具として弓矢に行き当たったのかもしれないわね」
コウと二人で内密に始めた話が、いつのまにか二班全体に広がっていた。
マサキは居心地悪く、ミツキや支部長の様子を窺ったが、彼らはチハヤと三班の班長を交え、支部長席の周囲で頭を突き合わせていた。
「シゲとか言うあいつはともかく、北部の人って効率悪いよな。矢だとなかなか致命傷にならないだろ」
コウが首を傾げた。
北部の里は、科学文明を嫌った地球人種の一部が数百年前から細々と生活を営んでいるところと言われている。他の村や町との交流はほとんどなく、実態も知られていなかった。
「毒」
マサキは思わず呟いた。
背に矢を受けたセオが、毒だと言っていた。鳥を狩るときも、熱に弱い毒を使い、仕留めた後加熱調理すれば食用にできる。
そうか毒かと盛り上がる四人の声が急速に遠のいた。
セオは、視力を失っていた。刃物による傷の出血も多かったが、手が思うように動かない様子だった。
末端運動神経の麻痺、痙攣。
マリから教わった薬草の知識を片端から思い浮かべ、出た結論にマサキは口元を覆った。
「げ、大丈夫かマサキ」
アオイが慌てて身をひいた。嘔吐は免れたが、嫌な思いが渦巻いて引かなかった。
あまりに顔色が悪かったのだろう。支部長がコウを呼んだ。
「すまんが、今日一日出勤できるか。この様子では、使い物にならん」
ため息交じりの侮蔑にマサキは項垂れ、コウは躊躇いがちに承諾した。
三班の班長の付き添いで強制的に帰宅させられた。思えば、夜を徹してサクラを逃がし、その足で山を下って出勤したのだ。官舎に放り込まれた途端に、糸が切れたように、床に倒れこんでしまった。
翌日出勤前に、セオが殺害された現場を回ってみた。
建物はすでに枝で囲まれていた。焼却処分をするのだ。警備に立つ若い本部員が、制服姿のマサキを見て敬礼した。
建物の外壁に、矢が刺さっていた。一昨日には無かった。即席で作られたようで、曲がった枝に固めの布を切って付けた体裁だ。その下に、炭で大きくテゥアータを罵倒する言葉が殴り書かれていた。
密かに拳を握り締めた。
鏃に塗られていた毒は恐らく、即効性のものではない。末端神経の麻痺を起こし、身体が次第に動かなくなり、視力や聴力の低下を招く。じわじわといたぶるように心臓に達し、動きを止めていく。残忍な毒だ。
もしマサキの推測が当たっていたら。セオの苦痛は、並大抵のものではなかっただろう。シゲは、苦しみが長引くのを知っていて数ある毒の中からそれを選んだのか、選択の余地がなかったのか。
(なのにあの人は)
突き上げる感情を堪えきれなくなりそうで、マサキは無理やり思考を止めた。
警備の若者を労い、現場を後にした。
しばらく歩くと、日当たりの良い一角で桜が一輪、開いたばかりの花弁を冷たい風に震わせていた。
泣いているようだと、マサキは思った。本当なら新しい門出を祝うため花開くはずだった桜が、セオの死を悼んでいる。
『頼む』
託された。けれど、セオの代わりにはなれないと知っていた。
風が強く吹けば千切れそうな花。
(なれるだろうか。あの花を支える幹に)
時間が許す限り、マサキは花を見上げていた。
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