Ⅷ-4 山へ

 長い夜が明けた。

 耳を床に付けていると、階下の声がくぐもって上がってくる。朝番は二班だ。


『言われたことだけやっておけばいいのに。なんでそんなめんどくさいことをするのかな』

 アオイの声がする。彼のように、何も考えずただ命令に従い生きていけたなら、随分と楽だっただろう。

 答えるチアキは、眼鏡を拭いているだろうか。


『最初から危なっかしかったけど。まさか、ここまで考えなしに行動すると思ってなかったな』

『なんかもう、頭痛が痛いわ』


 サラのため息も聞こえた。それぞれの声に、新参の射撃手が相槌を打っていた。


『我が支部から反逆者が出たことは遺憾だ。後日、本部から視察が入る。普段どおりにしていれば問題はないはずだな』


 ミツキが念を押す。全員が返答した。


 マサキはぼんやりと考えた。


 どうして他の人は、あれほど従順なのだろう。なんら疑問を抱かないのだろうか。

不気味にすら思った。そんな風に考える自分の方が間違っているのか。自信がなくなる。


 丸一日後ろで繋がれた手は痺れ、時折意志と関係なく痙攣した。残っている感覚は、どうにか手錠から抜けられないかと足掻いたとき擦れた傷に金属が食い込む鋭い痛みだけだった。

 喉が干上がっていた。舌を噛むことを防ぐための猿轡が邪魔で、唾すら上手く飲み込めない。


 庁舎の二階は秋の穏やかな日差しを受けていたが、鉄格子のはまった小さな窓から差し込む光は少ない。床はマサキの体温を吸い取り、どこかへ拡散させていた。頑丈な扉に体当たりする体力も気力も、とうに尽きていた。


(このまま終わるのかな)


 夢現で川のほとりに立つ自分の姿が見え、マサキは弱く頭を振った。


 科学が様々な事象を解明しても尚、死後や霊魂について不明な点が多い。

 人が生きる世界と死後の世界を分かつ川があると、地郷の民は信じていた。

 人は死ぬとその川のほとりに出る。すると、川の向こう、死者の世界から迎えが来る。

 迎えは、死んだばかりの人が最も会いたかった死者だ。その人の案内で、浅いが向こう岸の見えない川を渡る。


(テゥアータでも、同じなのかな)


 もやのかかった頭で、マサキは考え続けた。


 誰が迎えに来るだろう。死んだ人間の中で最も会いたいのは誰か。案内する側も、一回しか川のほとりへ戻れないと言われる。すでに誰かを案内した人は迎えに来られない。父親だろうか。


 考えてマサキは苦笑した。


 最後の最後に、あのふざけたタヌキ親父の顔を見なければならないのか。それとも、最期くらいは真面目に、息子の問いに答えてくれるだろうか。


 意識が遠のくと、川が見えた。サクラが佇んでいる。


 マサキは冷水を浴びせられたように目を開けた。

 いや、実際に髪の先から水が滴っていた。


「起きたか」


 支部長が桶を片手に立っていた。反対の手には、紙とペンが握られていた。


「どうだ。心を入れ替える気になったか」


 無言のマサキに、支部長はしゃがみこみ、頭を掴んで顔を上げさせた。意外と痛覚が残っていた。マサキは短く呻いた。


「以後、命令に忠実に従うならここの書面に署名しろ。そうすれば釈放してやれる」


 目を反らすことで、否と意思表示した。

 しばらく支部長が睨みつけてくる気迫を感じていたが、ふとそれが弱まった。


「ならば、本日正午をもって、貴様の身柄を本部へ引き渡すのみだ」


 ピクリと、マサキの頬が動いた。


 地郷公安本部へ身柄が移されれば、釈放の可能性は限りなくゼロに近くなる。良くて即刻処刑、悪くて命ある限り拷問の日々だろう。


 脳裏に、サクラとハジメの顔が浮かんだ。遺された彼女たちが今後どうなるのか。


(そう、だな)


 肩から力が抜けた。

 自分にとって大切なのは、サクラとハジメだ。他に親しいテゥアータの人々は、もういない。あの母子以外は所詮、他人なのだ。


(あの二人を見守り続けられたら、それでいい)


 諦めに似たものが、マサキから気負いを剥ぎ取っていった。


 口を動かすと、襟首をつかまれ、座らされた。猿轡を外されたが、強張った口はすぐに動かせなかった。


「それ、書いてもいいですよ」


 顎で書面を示すと、支部長の三白眼が僅かに見開いた。


「書かなきゃ、支部長だって困るんでしょ。重罪人の部下を出してしまった、て」

「署名したところで、起きたことは消せん」


 ムッと言い返され、妙に可笑しく笑いまで浮かんだ。


「俺だって、本部の地下牢行きはさすがに避けたいですから。ま、釈放ったって、どうせ監視は付くんでしょ」

「今後の貴様次第だ」


 背後の支部長が、太い指で手錠の小さな鍵を回すのに苦戦していた。失敗するたびに重い手錠が傷口に触れ、マサキは身を強張らせた。


 解放されても、手が痺れ、腕を前に持ってくるだけで肩が痛んだ。一日身動きを封じられただけでこれほどまでに筋肉や節々の機能が低下するものかと、マサキは愕然とした。


 用意された紙の上にペン先が定まらない。普段の流麗な署名に似ても似つかぬ線がのたくった。

 どうにか署名し終わると、その下へ支部長の署名が入った。


「明日には今後の処遇が言い渡されるはずだ。それまで官舎で謹慎しろ。例外として、食料の調達と最寄の診療所へ通うための外出は認める」


 手荒く腕をねじ上げられた。


「射撃手である以上、怪我の処置はしておけ」


 そのまま突き放された。

 支部長は、マサキを立たせてくれたつもりだろう。弱っていたマサキは、勢いで床へ転がった。踏みとどまる力すら残ってなかった。


 大股で勾留室から支部長が出て行った後、扉は開け放たれていた。


 ぼんやりと床の木材のささくれを眺めた。

 拘束を解かれた。しかし、すぐに行動する気力がなかった。


 どれくらいの時間、そうしていたのか。気が付けば、辺りは薄暗くなっていた。濡れたままの身体が火照り始めた。


(さすがに、ヤバイか)


 そろりと身を起こすと、眩暈がした。しかし、血が通うようになった筋肉は力を取り戻していた。


 ゆっくり起き上がり、手すりを頼りながら階段を下りた。


 にわかに玄関が騒がしくなった。外から喚きながら男が入ってくるのを、チハヤが応対した。


「あいつ、完全にいかれてやがる。おだてあげられていい気になりやがって。気に食わなきゃ斬りつけていいってことじゃないだろ、なあ、公安さん」


 がなりたてる合間に、チハヤの落ち着いた声がくぐもって階段を登ってきた。折り返しのところまで辿りつき、首を伸ばして様子を窺った。

 男はまだ若く、左半身を赤く血で染めていた。肩を鋭利な刃物で斬りつけられたらしく、シャツか何かで押さえているがその手もヌラリと赤黒く光っている。

 チハヤが誰かに応急手当を命じた。男を小部屋へ案内する声がした。


 男も、次第に落ち着きを取り戻したようだった。チハヤが親切に話を聞いてくれることに甘え、ぶつぶつ愚痴をこぼした。


「畜生。でも、確かに俺は見たんだよ。あの山に、黄色い頭のひよっこがいるのをな」


 男の言葉に、マサキは心臓を止めそうになった。


(見つかった!?)


「なのに、女しかいなかったとか怒りやがって。見落としてんのはテメェじゃないかってんだ。くそ。もうシゲとはつるまねぇ」


 階下の音が静まった。


 静寂の中で、鼓動が気味悪く響いた。階段の半ばで座り込み、マサキは脈に合わせて痛む頭を抱えた。


(俺は、何をしていたんだ)


 命令無視をして、身柄を拘束されて、その間に最も大切なものを失くしたのか。

 腹から突き上げる慟哭が零れ出ないよう、口を押さえた。猿轡で擦れた口端が痛んだ。


(サクラ……ハジメ……)


 ふと、先ほどの男の言葉が蘇った。


 


 歯を食いしばり、手すりを掴んだ。手首に激痛が走ったが、構わず鉛のように重い体を引き上げた。

 少なくとも、あの男が負傷した時点でハジメは見つかっていない。


(行かなくては。山に)


 見据えたこげ茶色の瞳の奥に、強い光が点った。

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