Ⅷ-5 残されたもの

 風下の草の間から透かし見ると、サクラが身を隠していた小屋の中に数個の灯りが見えた。屋外にも、星明りの下、人影が蠢いている。

 風の強さに合わせ、マサキは移動した。いったん官舎に戻り黒っぽい服を選んだため、上手く闇夜に紛れ込めた。


 ハジメはまだ、敵の掌中に落ちていない様子だ。


(だとしたら、どこに)


 用心深く進路を選びながら考えを巡らせた。幼い彼の知っている範囲で、敵の想定を超えたところ。


 以前母子がマサキを見送ってくれたことのある坑道を思い出した。天然の横穴から続く坑道で、現在は林の中に埋もれている。ハジメはサクラの腕の中で、興味深げに辺りを見回していた。


 横穴に続く道に小さな足跡を認め、マサキは確信を持った。足跡を踏んで大きな跡に書き換えながら進んだ。


 入り口は、樹木に寄生した蔓草が簾のように垂れ下がり、外から巧妙に隠されていた。音もなく中へ入り、幾分進んで耳を澄ませた。

 ほんの微かに、何かの気配がした。

 岩に反響した己の鼓動かもしれない。考えながらも思い切って、小さく名乗った。

 先ほどよりはっきり、奥で動く音がした。


 横穴の曲がり角を過ぎてから、ランプへ火を入れた。手持ちの包帯で応急処置した手首の傷が邪魔をして、いつもより手間取った。余分な灯りが外へ漏れないよう、手で覆いながら足を進めた。


 奥の物音は、明かりから逃れるように遠ざかっているようにも聞こえた。

 ハジメが警戒しているのか。それとも、住み着いた動物か、敵か。

 考え、低く歌を口ずさんだ。サクラがハジメを寝かしつけるときよく歌っていた。子守唄ではなく、町を回る舞芸人が使う歌の一つだった。


 奥の物音が止まった。意を決して、低く名を呼んだ。


 ランプの弱い光に浮かんだ岩の背後から、小さな顔が覗いた。怯えて強張っていた表情が、マサキを認めてたちまち崩れた。


「まちゃ」


 掠れた息が、辛うじて声となっていた。ドロドロに汚れた顔の、目の下だけが筋となって洗い流されていく。


「まちゃぁ」


 駆け寄ったハジメを、マサキは膝をついて受け止めた。マサキの胸に顔を埋め泣きじゃくりながらも、極力声を発しないようしがみついてくる。


 小さな体は、腕に力を込めれば砕けそうなほどに細かった。




 背負ったハジメを上着で隠し、闇に紛れて官舎へ戻ったのは夜更けだった。


 床に下ろすと、眠っていたハジメは目を覚まし、顔を擦ってぼんやりと座り込んだ。

 濡らしたタオルで彼の手や顔を綺麗に拭い、肩にかけたままの鞄を下ろさせた。汚れた服を脱がしてマサキのシャツを着せる間もハジメは、時折目を閉じてコクリと頭を落とした。


(ひとりで、よく耐えた)


 暗い横穴の中でじっと。どれだけの時間、待っていたのだろう。


 抱きかかえて寝台へ寝かせようとすると、ハジメが身じろぎをした。床に置かれた鞄へ手を伸ばす。


「これか?」


 寝台に座らせ渡すと、中を探って封筒を差し出した。


「こえ。たーたん」

「お母さんから?」


 コクリと頷くと、ハジメは小さな口をめいいっぱい開けて欠伸をした。


「分かった。とりあえず寝ろ」


 毛布を掛け、立ち上がろうとすると袖を掴まれた。手首の傷に障り、痛みが走る。

 不安に揺れる金の瞳に見上げられ、マサキは弱く微笑むと寝台の側に膝をついた。小さな手を握り、反対の手で腹の辺りを優しくポンポンしてやる。

 間もなく、寝息が聞こえてきた。


 サクラからという封筒を開けた。傷で強張る指先で上手く中のものが取り出せず、逆さにして手に受けた。

 小さな金属音がした。掌に輝く細い光に息を詰めた。


 セオのペンダント。小さな渋染めの布の袋に入った櫛。そして、手紙。


 震える手で、手紙を開いた。窓に近付き、僅かに浮かぶインクの文字を追った。


『夢を、見ました』


 冒頭の一文が心臓に刺さった。咄嗟に手紙を閉じた。


 知っていたのだ。サクラは、こうなることを予知していた。していながら、どうして。


 せりあがってくる激情に肺を圧迫され、呼吸すら苦しい。

 窓の下に座り込み、マサキは手紙を握りつぶした。堪えても堪えきれない嗚咽が喉から溢れた。


 最後に見たサクラの、疲れた顔が瞼に焼き付いていた。死を予知していながら避けようとしないまでに、追い詰められていたのか。

 こんなことになるのなら、身の危険を顧みず地郷公安部を抜け、側にいて少しでも気持ちを和らげてやれば良かったと、後悔が押し寄せた。

 マサキも追われる身となれば、命運はもっと早くに尽きたかもしれない。それでも、離れたところで結局なにも出来ず彼女を失うよりずっと、満足できたに違いなかった。


 人の声に、マサキは慟哭を止めた。現実に置かれた己の身を思い出し、神経を尖らせた。


 声は、室内から聞こえていた。肝が冷えたが、すぐにハジメの声だと認識した。押し寄せる悲しみに、幼子の存在を忘れていた。


 寝台に歩み寄ると、ハジメが大きく体をよじった。固く閉じられた目の端から、涙が零れ落ちる。


「……たーたん」


 うなされた言葉に、マサキはハッとした。


(まさか)


 ハジメは、見たのかもしれない。母親が殺される瞬間を。


 のけぞり、露になった白い喉が笛のように鳴った。日頃から声をあげて泣くことすら許されない少年の手を、包むように握った。骨ばった小さな手もまた、夢現にマサキを認識して握り返してくる。


 枝先のような手だった。


 再び落ち着いた寝息が戻った。力の弱まった指から手を抜き、睫毛に溜まった涙を拭ってやる。


 この子もまた、取り残されたのだ。大切な人を失った。


 幾分気持ちが静まり、マサキは手の内でよれた手紙を丁寧に広げた。一度深く呼吸をして、朝の光が入り始めた寝台の脇で文字を追った。

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