Ⅲ-4 嵐の始まり

 湿った重い空気が山頂から下りてくる。振り仰げば、藍色の空の半分に星がまたたいているが、もう半分は縁を銀に染めた黒雲に覆われつつあった。


 嵐が来るから、長居はしないほうがいい。


 昨夜宿を提供してくれた麓の農夫の忠告を思い出し、セオは唇を引き締めた。


 魔導師の正装を身にまとい、風で乱された髪の上からフードを深く被る。彼の姿は、遠くから見ると、ぼんやり立ち上る亡霊と錯覚されそうだ。


 跪いて目を閉じる。風とは異なる流れが、セオの身体を取り巻く。ゆったりと渦を巻く気の流れはやがて彼をすっぽりと包み込み、そこだけ風がやんだように見えた。


 はるか星の裏側にある、王城を心に描き出す。


 天然の城壁と言える険しい崖を背後に、他方を堅牢な石造りの壁に囲まれた王城は、おそらくここよりサラリとした空気の中で穏やかな陽を浴びているだろう。

 蔓草に飾られたアーチ型の門をくぐれば、石畳の通路がまっすぐエントランスへ続く。

一面に彫り物を施した豪奢な扉を抜けると、四角い中庭を囲む回廊があり、エントランスの正面にあたる奥の広間の、数段上がったところへ、簡素だが頑丈な作りの玉座が据えられていた。

 玉座の背後は飾り枠が施された窓になっており、硝子を通して神木『永遠樹とわき』が濃い緑の葉を風に揺らしている。


 数日前まで毎日のように目にしていた光景が、セオにはすでに昔の記憶のように霞んで見えた。


 その遠い王城へと、意識を集中させる。

ペンダントのある胸の辺りから、ほのかな温もりが広がっていった。周囲の音が遠ざかり、替わりに懐かしい人々のざわめきが近付いて過ぎ去り、感じた覚えのある、どっしりとした思念が応えた。


 ゆらりと、セオの前で空気が揺れた。


風が靡く山腹の景色を透かせた老人の姿が、陽炎のように立ち昇る。セオと異なり、長い外套は魔導師次長を示す濃い緑色だ。体を預ける杖は節々が簡素な装飾となっており、太さは子供の腕と同じくらいで、彼が失くした片足の替わりを勤めるのに十分な強さを持っている。


「ご無沙汰しております、魔導師次長」


 セオが思念と共に声を紡ぐと、人影も頷き、口唇を動かした。

『ご苦労』

 人影は、時に濃くはっきりと、時に淡く消え入りそうになりながら、セオの前にあり続けた。夜の獲物を探しに巣穴から出てきたノネズミが、揺らめく影へ鼻を突きたてたが、背中の毛を逆立てていずこかへ駆けていった。


「至急、ガルディア王へ報告したいことがございます」

『こちらでも、チサトでの異様な力の動きを察して、たった今、大臣との会議が終わったところだ。件の子供のこともあってな』


「あの子供は、いかがなされましたか」


 魔導師次長の影が、頷いた。

『力見の言によれば、確かに戦士として強い力を持っている。将来、王女を助けて立派な将軍となりうるだろう。王女の乳母が面倒をみておる。が、今後、養育を誰がするのか、意見がまとまらぬ。誰もが、それぞれ手一杯だ』


 影が薄くなり、魔導師次長の表情は伺えなかった。しかし、声の感じから、少なくとも彼自身は子供を歓迎していないと察せられた。


 意図的に作り出された、得体の知れない肉体。しかし、王に将来を期待されている魂。進んで責務を負いたい者は多くないだろう。


 后は、王女をこの世に送り出すと同時に息を引き取った。王も后も親戚縁者がおらず、今のところは王女の乳母が最低限の世話をしている光景が、魔導師次長を通してセオに伝わった。


 素知らぬ顔で、セオは改めて王と交信する許可を求めた。


 魔導師次長の姿が薄れ、背後の暗闇に溶け込むと、やや間があって、現在テゥアータの王を勤める中年男性の姿が現れた。人払いをしてあるとみえて、侍従の気配はない。


 王は、年月を経て重厚な色味を持った玉座に浅めに腰掛けていた。セオの思念を認めると、落ち着かなく座りなおす。白いゆったりとした衣を纏い、額には歴代の王から引き継がれた金色の飾りが煌いていた。淡い赤髪は一本の三つ編みに結われ、左肩から胸元へ垂れている。

テゥアータの国内で唯一、神木の声を聞く力を持つ人物が、彼である。


 セオは王に促され、方舟で起きた異変について報告した。その間、王は無言で、厚い唇を一文字に引き締めていた。


『こちらで報告された、チサトでの力の乱れは、それであったか』


 苦々しい口調に、セオは低く頭を垂れるしかなかった。

『しかし、外交上なんら変更はない。宣戦布告も通商の取りやめも、いまのところは言ってこないが』

 短く切りそろえられた髭に覆われた顎を撫でる王に、セオは重い口を開いた。


「今朝のチサトの新聞で、同胞による強殺事件が報じられました。力が行使されたと明記されています。事実と思えない記事ですが、多くの地球人種がその内容を鵜呑みにして、不安を募らせているのを感じました」


『地球人種にくすぶる、我らへの憎しみの火種を掻き起すつもりか』

 王は素早く眼球を動かし、セオには見えない己の周囲を確認した。身を乗り出し、思念の声を低める。


『あやつの仕業とみて、間違いないのだな』

「おそらく。なんらかの方法で、方舟内に力を及ばせていると思われます」


 セオは跪いたまま後ろへさがると、草の中に突っ伏すように頭を下げた。


「申し訳ございません」

『仕方あるまい。そもそもが、私の力が脆弱なのがいけないのだ。並みの王に恥じぬ力があれば、治世を乱されることもない。力の発動のため、あやつの力を借りる必要もないのだ』


 苦悶が王の顔を歪ませ、年齢よりずっと彼を老人に近づけた。


 ガルディア王は、テゥアータの歴史上、最弱の王と言われている。神である永遠樹とわきの声を聞くことも、地郷を覆う結界を保つことも、己の力ひとつでは足りなかった。


 一方で、セオの弟子であるジェイファは、王の力を一度己の中に取り込むことで増幅させ、王の代わりに発動せる力を持っていた。

 しかし、ジェイファは、この度テゥアータと地球人種の間に争いの種をまこうとしているアルファと同体である。王がジェイファの力を使うなら、最も危険な災いをも身の側に置かなくてはならないのだ。


 もとはひとつだったジェイファの魂が分裂し、アルファという名の邪悪な魂を生み出した。このことを知り、理解しているのは、セオの他は、王と、片足を失った魔導師次長だけである。


『今更だが、おぬしを呼び戻すことも提案した。が、代わりに赴ける人材がいない』

「左様ですか」

『せめて、そのペンダントに宿る力を強める術を、私が持っていたらよかったのだが。先王が込めた力が、いつまで保たれるものか、予測が出来ぬ。力尽きるようであれば、地郷の北方にテゥアータへ繋がる門があるという。それを探されよ』

「御意」

 左胸に当てた拳を、いつもより強く握り締めた。


(分かっている)


 役人リーディを務められる程度の力を持ちながら、城で特定の役職を持たず、万が一帰国できなくとも支障のない人材。


 それが、この度地郷へ赴く人物の条件だった。もし二国の間柄が緊迫したものにならなくとも、危険を伴う任務に変わりなかった。


 おそらく、アルファはそれを知って、セオが役人になるよう仕向けた。老研究者を通してぶつけられた憎悪を思い出し、セオの胸は苦い痛みに疼いた。


 思念で会話している間は、相手に感情や思いが知られやすくなる。しかし、セオの頑強な心の扉は、心の痛みを王へ伝えることなく閉じられていた。


 交信の終わりに、セオはジェイファと会話する許しを得た。

目の前の空気がまた変わり、風に靡く草に埋もれるように、白っぽい塊が現れる。


ジェイファは、立ち並べばセオよりわずかに長身である身体を小さく折ってひれ伏していた。枯れ草色の長い髪が、生成りの外套の背から床まで張っていた。


「いいから、顔を上げて」


 おずおずと上がった細面は、まだ少年らしさを残している。血色を失ったその頬に戒めの術の痕跡を認め、セオは顔を顰めた。


「こんなことをしてジェイの力を封じては、余計にアルファが強くなると申し上げたのに」


『仕方ありません。魔導師長さまには、アルファという存在は、私の中の悪しき心という位置づけになっておりますから』

 弱々しく微笑む友人を前に、セオはかける言葉を失くして膝を崩した。草の上に胡坐をかき、地郷の夏に被るには暑苦しいフードを払いのけ息をつく。


 ジェイファが息を呑んだ。


『髪を』

「こちらでは目立ちすぎるからね。可笑しいか?」

『いえ。意外にもよく似合ってますよ』


 ようやく頬を緩めたジェイファに、セオは大きく頷いた。


「私の力も、何かに宿して君の側に置いていけたら良かったのだけれど。上手くいかなくて、すまない」

『あなたは、ご自分の力を過小評価しすぎです。潜在的なものも含めたあなたの力は強すぎて、受け止められるお方は、いまこの城では魔導師長のみであられましょう。その彼女に協力を拒まれたのですから、あなたのせいではありません』


 昔から、現魔導師長とセオの仕える魔導師次長はウマが合わない。ジェイファのことにしても、魔導師長の協力があればもっとスムーズに収まると期待できるが、互いの考え方の違いもあって難しい。


「ジェイも、もっと自信を持って。前も言ったけど、力の強さはアルファと同じなんだ。自分から彼と向き合う勇気があれば、対話も可能かもしれない」

『不安です。この度も、あなたが選ばれた理由を知り、悲しんでいたところでした』

「私は大丈夫だから。四年の間、魔導師次長の助けも借りながら、辛抱してくれ」


 弟子が小さく頷くのを認め、セオは立ち上がった。途端に、景色がクラリと揺れ、再度うずくまる。


『セオ』


 咄嗟に差し伸べられたジェイファの手が、セオの肩を通り過ぎた。

「力が使えないって、不便だな。町からここまで、丸二日かけて、自分の足で移動しなくてはならなかった」


 苦笑するセオに、ジェイファは眉の端を下げた。

『図書庫にこもってばかりおられたからです。中庭だけでも散策するよう、お勧めしたではありませんか』

「君の言うことを聞いていればよかった。帰任する頃には、すっかり丈夫になって皆を驚かせよう」

 おどけたように肩をすくめてみせると、ようやくジェイファは不安を解いたようだ。


『それでは、お気をつけて』


 次第に薄くなり、背景に溶け込んでいく弟子の姿が完全に見えなくなり、思念が途切れ、さらに数秒間、セオは笑みと気丈な思念を崩さなかった。


 ジェイファが戻ってこないと確信してようやく、力を抜く。


 途端に、強い風を受け、セオは座った状態から草の上に倒れこんだ。

実のところ、山を登り始めた昼頃から、体調が思わしくなかった。全身がだるく、熱っぽい。


 今や、真っ黒い雲が夜空を覆っていた。一筋の光も通さない暗黒の天から、大粒の雨が落ちてくる。


 これ以上、一歩も動く気力がなかった。


 ぼんやりと、草の揺らぎを見つめた。

ふと目をこらすと、這っていけそうなところに手ごろな横穴がぽっかり口を開けているのを見つけた。

 横穴の口は斜面の下りへ開けており、奥は深く、乾燥している。人工的に掘られたもので、内壁は滑らかに削られていた。

坑道跡だ。


 どうにか身を押し込める背後から、雨脚が強まり風が吹き荒れた。


(ここなら、王都の路地より寝心地が良さそうだ)


 城に上がる以前の、惨めな路上生活の思い出すら懐かしく感じていることに苦笑した。畳んだ外套を枕に横たわると、外の嵐すら耳に心地良い楽曲と変わる。




 嵐は、次の日も地郷全域で暴れまわった。


 翌夜にようやく雨が上がった。鮮やかな星空が戻る。しかし、依然強い風が残り、山肌を撫でて町を駆け抜ける。


 その風に乗り、大量の文書が、町の朝空を舞った。


『すべての民へ。間違いに気が付いてほしい。テゥアータ人は、地球人種の敵ではない。……』


 もう一つの嵐の始まりだった。

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