Ⅴ-6 たとえテゥアータの力でも
甲高いトリのさえずりが、遠くからこだまする。子供たちのじゃれあい、明るい叱責、農具の触れ合う音。
白い筋となって光が差し込む。寝具の延長に広がる床が、四角く照らされている。
半開きの瞼の隙間から、マサキはぼんやりと朝の景色を感じていた。
長い、ずいぶん長い夢を見ていた気がする。
地郷公安部員となり、町で生活して。事件を解決させ、町の人に礼を言われ。迷子の世話をして。
気さくな友人がいた。やたら怖い上司も。
腕を寝具の上に滑らせる。心地よい倦怠感が残るまま、伸びをする。毛布から飛び出す手足に、朝の空気が冷たい。
サクラはもう、子供たちをつれて水を汲みにいったのだろうか。いま、畑では何を植えているところだったか。そろそろ起きて、朝餉の支度をしなくては。みんな、お腹を空かせて戻ってくる。
頭を起こすと、枕元に置かれた白い制服が目に留まった。たちまち夢と現実がグラリと反転した。傷つけられたもの、失ったものの数々が矢継ぎ早に蘇る。
軽い眩暈を覚えて、マサキは数秒間、きつく目を閉じた。
サクラの存在までもが夢であったかと疑う。しかし、枕元に落ちた長い栗毛を認め、マサキは大きく息を吐いた。
夜更け、満たされたサクラの目元に、一筋の涙がありはしなかったか。最初から、姿をくらませる算段だったのだろう。
腕はまだ、彼女の悶えを覚えている。それなのに、素早い小動物のように、するりと手の内から逃げられてしまった。
制服を荷物へ入れ、替わりに持ってきた私服を纏う。
不幸な帰省を、支部長は直帰の出張としてミツキへ報告してくれた。お陰で、非番も合わせるとかなりの日数を諸々の片付けに充てられる。細やかな心遣いに感謝して、心を無にして作業に取りかかった。
簡素な家の片付けは、昼前に終わってしまった。
時埜村から引っ越す際、あらかた片付けてあったとみえ、日用品のほか処分しなくてはならないものはほとんどなかった。
僅かに蓄えてあった食材をまとめ、調理台に置かれていた木杓子を手にする。母は、料理の際よくこの杓子を使っていた。自分で削って作ったのだと、自慢していた声が思い出される。
荷物を担いで鍵をかける段になり、またもやマサキは鍵束に悩まされた。昨日のうちに、家の鍵だけを外しておけば良かったと後悔する。
(あー。もう。どれだよ)
また端から順に錠へ刺そうとした手が止まった。
(六本、だったよな)
一本足りない。記憶を手繰り、鍵を弄ぶ。マサキは目を細め、峰を見上げた。
時埜村の地下室は、解錠されていた。
可能な限り音をたてず扉を押すと、乾いた土色の部屋に人影はない。しかし、うっすら積もった埃の上に、マサキより小さな足跡が認められた。
狩りの獲物に近付くときの忍び足で室内を巡り、以前にはなかったものを見つける。
床へ膝をつき、その小さな黒い染みを目で辿った。床に密着した何かに遮られ左右に広がった、一片が直線に近い染み。嗅覚に意識を集中させれば、かすかにインクの臭いが残る。
さらに目を凝らすと、反転した文字のような汚れもあった。
目を近付けようと前かがみになる。後頭部の一点に、金属が押し当てられた。
「動かないで」
冷ややかに、サクラが命じる。
マサキは、大人しく動きを止めると目を閉じた。
「やっぱり、マリさんの文書だったんだな」
「見つけてしまったの。キルトの中に」
眼球のみを動かし、壁の一面を見る。かつて、そこにマリが縫ったキルトの壁掛けがあった。
「布に書き写したものを、小さく切って縫いこんであった。解くのが大変だったわ」
裁縫が大の苦手なサクラが、糸と鋏に翻弄される姿が浮かんだ。思わず小さく笑うと、銃口の押し付け加減が強まった。
「カイトさんは、どうして?」
マサキの問いに、銃口が僅かにひるむ。
「新聞社の備品を利用するだけのつもりだった。だけど、植字を取ろうとしたのが見つかって、その時、彼もお祖父さんの孫だと分かった。そんな偶然があるんだ、て」
マリの愛人であり、中央研究所で件の論文を発表した研究員。同じ男性を祖父に持つ、別の家系の孫たちが出会った故に、実現した謀反。
「カイトさんは、原本を暗記している私を逃がしてくれた。彼に罪を被せて逃げたくなかったけど、託されて」
「アヤメさんを?」
頷いたのか、衣擦れの音がした。
「今でも、私が出頭することで彼が釈放されるならそうする。けれど、あの人たちはそうしないでしょう?」
マサキは表情を曇らせた。サクラへ背を向けていてよかったと思える。
カイトの死を、彼女は知らない。地郷公安本部は、カイトの獄中死を公にしていないので当然だが、それはまた、ヤマト夫妻のとき同様に、彼の死を夢で予見していなかったことを示していた。
夢に見る基準も、正しく予見する確率も安定していない。そのように言っても、サクラはまた、救えなかったことを罪として背負ってしまいそうだった。
「私はもう、あなたの恋人でも、幼馴染みでもない。ただの犯罪者なの。あなたにはむしろ、通報の義務がある」
声が、揺れた。
「マサが愛してくれた私は、もういない。だから、私とのことを忘れて」
「脅迫するのか。その銃で」
「私の腕前は、知っているでしょう?」
小刻みに震える銃口が、マサキの短い髪を動かした。
撃鉄が上がる金属音が、骨に響く。
何故、このような状況に追い込まれることになったのか。マサキは唇を噛んだ。
マリの事件があったにしても、地郷公安部員になっていなければ、今朝の夢こそ現実だったかもしれない。
せめて、文書拡散を食い止めていれば、サクラは謀反人にならなかったと思うと、何も知らず、無邪気に公安部に憧れていたかつての自分が恨めしい。
「俺と結婚できないのも」
「身内に犯罪者を置く部員がどういうことになるか、支部内に見本がいるでしょ」
「サクラは関係ないだろ」
否定する気配がした。声の湿度が高くなる。
「孫であっても、住民登録に証拠が残るわ。縁を切るにも、役場の承諾が得られなかった。裏から手が回ってたんだわ、きっと。それならいっそ、お祖母さんの未練を果たしたかった」
吐息に、鼻をすする音が混じる。
「マサが合格できないようにしようとも考えた。右の人差し指を切り落とせば簡単なことよ?」
「おい」
「しないわよ。できない。マサにだけは、幸せになって欲しかったから」
絞り出すような呟きだ。なのに、と続くサクラの声は、いよいよ掠れている。
「去年になっていきなり、絶縁申請が受理された。遅いのよ。マサが公安部員になってからじゃ。文書を見つけてしまってからじゃ、遅かったのよ。私はもう、アヤメさんのような人たちを見捨てられない」
沈黙の後、マサキは一度、歯を食いしばった。
「分かった。忘れる」
今さら、彼女の決意を変えられない。いつ露呈するか分からない身元を隠して公安部員の妻になれと、強いることはできない。
彼女の望み通りにしてやれば、それがたとえ暗黒への道であろうと、誇り高く笑顔で歩んでいけるに違いない。
それが、マサキがサクラを幸せにしてやれる唯一の方法だ。
銃口が、ほんの少し離れた。床に映るサクラのほのかな影を見つめ、マサキは膝に載せた拳を固めた。
「今の自白、全部忘れてやる」
サクラが息をのむ。
組織を裏切ると宣言したも同じだった。上層部に知られたら、即処刑だろう。離脱しても追われる。
「マサキ、駄目」
「サクラを忘れることは出来ない。たとえ、テゥアータの力で記憶を消されようと」
サクラの居ない世界に生きて、なんの意味があるのか。夫婦として添うことが不可能であろうと、彼女に拒絶されようと。
上司や組織での存在意義、両親を失くした今、マサキの生きる
「やめて、マサ」
サクラの吐息が髪にかかった。
後頭部が軽くなる。マサキは腿に力を込めた。立ち上がりざまに身体を反転させ、サクラの手元へ手を伸ばした。
しかし、サクラもかつてチハヤの手ほどきを受けた強者だ。反射的に上体を引き、マサキの足を払う。
長い時間、中途半端な体勢で固められていた足は感覚が鈍り、脳からの指令を正しく実行できない。
「私が嫌なの」
サクラの細い指が引き金にかかる。
「マサキまで不幸にしたくないの」
銃口が反らされた。しかし、足が思うように動かない。
耳を塞ぐのが精一杯だった。
鼓膜を突く炸裂音に、聴覚が麻痺する。
サクラ
叫んだ自分の声も、走り去る足音も聞こえない。
呆然と、どれくらい座り込んでいただろうか。
耳鳴りが戻ってきた。土の床が浅くえぐれている。弾丸を込めず、火薬だけ詰めてあった薬莢が、淡い光の中に転がっていた。
(サクラを忘れる以上の不幸が、どこにあるって言うんだ)
手の内に残ったのは、この小さな金属製の筒だけだった。
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