Ⅴ-7 過去へ告げる別れ
冷たい夜気が肌を刺す。
サクラは行く当てもなく、夜の
角の向こうにランタンの灯を認め、路地へ身を隠した。夜回りの地郷公安部員が通り過ぎるまで、息を潜める。
同じようなことを数回繰り返しただけで、サクラは路地へ座り込んだまま、動けなくなった。
空虚さが、心身を蝕む。
時埜村を飛び出したものの、これからどうすべきか。
祖母がキルトに隠した祖父の手紙には、論文の内容を広く世間に知らしめて欲しいとあった。
祖母は手紙を隠蔽した。それが彼女の意思であったと、サクラは思わない。祖母は、死ぬ間際まで文書を気にかけていた。実際に看取ったわけではないが、死を予知する夢で彼女の言葉を聞いた。ごめんなさい、と。
だから、夢で祖母が悲しそうに見上げたキルトに着目し、論文と手紙を見出した。そしてその内容に共感し、祖父の願いを、祖母が果たせなかった思いを、自分の手で実現させると決意した。
文書を読めば、たくさんの同志が立ち上がると楽観していた。
しかし、人々の頭は毎日を飢えず生きていくことに占められ、隣の異人にまで意識が回らない。その結果、テゥアータの形質を持って生まれる地球人種までもが虐げられていく。
地聖に来る途中、道の傍で噂を耳にした。
文書拡散に協力してくれたカイトが、獄中で死んだ。ついに助け出すことができなかった。
彼の子を出産したアヤメの行方はまだ分からない。
そして、何かと頼りにしていたヤマト夫妻も死んだ。
これ以上、何をするのも怖い。自分が行動を起こせば、また要らぬ不幸を招いてしまう。
かといって、このまま消えていなくなるのも空しい。
せめて、とサクラは『方舟』を見上げた。
連なる屋根で狭められた夜空に、月明かりを受けて白く輝く尖塔。高価な硝子をふんだんに嵌め込んだ窓から、やはり高価な電気による灯りが溢れ出している。
祖父を陥れた研究員。名をタネトモと言い、老齢ながら現役で働いていると、カイトから聞いた。そればかりか、最近はミカドの直接の顧問研究員として重用されているという。
彼に、一矢報いることは出来ないものか。
ぼんやりと考える目の前を、ひとりの女が足早に通った。長く洗った形跡のない黒髪は脂っぽく、服もまた薄汚れて嫌な臭いを放っている。無意識に目を背けたが、彼女の手先で音を立てた紙の束に引きつけられた。
「待って」
とっさにサクラは立ち上がった。逃げ出そうとする女へ、サクラは急いで声をかけた。
「公安じゃないわよ」
「じゃあ、なにさ」
警戒を露にする女の手元を指差した。
「それに、興味があるの」
暗がりでも、何百枚と見た紙面だからそれと分かる。
カイトと共に、時埜村の地下室で印刷をした文書。地郷公安部が全て回収してしまったかと諦めていたが、女は十枚近くの文書を手にしていた。
持ち続けてくれた人がいた。
サクラの胸が熱くなる。
女はしばらく、文書とサクラの顔を見比べていたが、真っ赤な紅を引いた口の端を挙げた。
「いいよ。あたしより話が分かりそうな奴を紹介するよ」
路地の奥へ進むと、積み上げたゴミに挟まれるようにして扉があった。細く開いた隙間へ押し込まれる。
室内に居た数人の男が一様にサクラへ注目した。大半が、ドロリとした、焦点の合わない目をしている。
机の上に一つだけ置かれたランプの灯りが、煙で拡散されて部屋全体をぼんやりと明るくしていた。
扉の開閉で煙が渦を巻き、流れる。一筋がサクラの鼻先を撫でた。
(しまった)
後退るより先に、腕をつかまれた。小さな痛みが、皮膚の一点に刺さる。得意の武術で振りほどこうとしたときにはすでに、クスリに神経を侵されていた。
科研町でテゥアータの薬草から抽出した成分から覚醒剤が作られ、裏社会で密かに流通されている話を、幼少期チハヤから聞いたことがあった。
取締りが強化され、一時は撲滅に近い状態まで排除したが、最近になって精製法を変えて再び流行っていることも、小耳に挟んでいた。
夜の路地をうろつく女が、文書の内容を正しく解釈しているなど、勘違い甚だしい。彼女たちが紙面に並ぶ線の組み合わせを文字だと認識していたとしても、内容に興味を示すことはなかっただろう。
地郷の識字率は、町といえど高くない。
そして、紙は安くない。
彼らは、ある日空から舞い落ちる大量の「クスリの包み紙」に歓喜して、かき集めたに過ぎない。
なのに、つられてしまった。
(なんて愚かな)
自分を罵る声も、弱々しく掠れる。
東の空の星が霞む。
壁にすがりながら歩くサクラを見れば、親切な誰かが、事件に巻き込まれた被害者として通報してしまうだろう。服は煤と血に汚れ、至る所に深くはないが傷を負っている。
しかし、たとえ被害者としてでも、身元を調べられると都合が悪い。地郷公安本部には、サクラがチハヤの娘であり、マリの孫であることを記憶している者がまだ大勢いるだろう。
薬中のアジトに公安部が踏み込んだ騒ぎに乗じて、辛うじて逃げだせた。せっかく逃げた相手の懐に戻されるなど、まっぴらごめんだ。
足を踏み出すたびに、下腹部に痛みが走る。身体中から嫌な臭いがした。
クスリで意識が失われている間、男たちに何をされたのか、大方想像がつく。
歯を食いしばる。
マサキとはもう会わない。覚悟を決め、最後に全身で彼を覚えておきたくて求めた。
その名残を、汚された。
全身をナメクジに這われたような不快さに、体を切り刻んで洗浄したい衝動にかられる。
(……マサ)
心中で呼びかけ、すぐ、弱く頭を振った。彼の手を振り切ったのは自分だ。
体を支える次の壁まで、間があった。
手を伸ばす。めいいっぱい頑張っているつもりだが、指の先すら届かない。
(あと、少し)
バランスを崩した。肩から地面が近付く。走り寄る足音が聞こえた。
逃げる力はない。
諦め、目を閉じる。瞼が重かった。
「しっかり」
倒れる速度がゆっくりになり、サクラの身体は、よろめきながらも膝から軟着陸した。
「もう少しだけ、がんばって」
弱い腕が、懸命に脇を引き上げようとしている。聞いたことのある声だった。
ああ、と息を吐く。
(あの、えらそうな役人さん)
脳裏でテゥアータ人の顔が像を結ぶ前に、サクラの意識は途絶えた。
甘い穀物の香りが鼻腔をくすぐる。
「食べられそう?」
耳に心地よい声に問われ、サクラは枕の上で首を回した。
さして広くない部屋の反対側の壁に沿って調理台があり、金髪のテゥアータ人役人が椀を持ち上げてみせる。セオ、という名前だったと、おぼろに思い出した。
「水が、いい」
「起きれるよね」
頷く。気分は悪くない。体も、ゆっくりなら動く。そろそろと上体を起こしている間に、セオは椅子を寝台の脇へ押しやってきた。
座面に、水で満たされた器と粥の椀が置かれている。それを、可能な限り遠くから身体を伸ばしてサクラへ届けようとしている。
その様子が可笑しく、サクラは弱く笑った。
「それは、テゥアータ式の何か?」
皮肉を込めたが、セオは目尻を下げた。やはり離れた位置にもうひとつ椅子を持ってくると、背もたれを抱えるように跨る。
「今、男である私に近付かれたくないと思ったが」
躊躇するよう言われ、サクラは身を引いた。目の前の男が、人の思考を読む力を持つことを思い出した。
寝具の中で拳を握る。動けないサクラへ馬乗りになった複数の男の汚らわしい体の記憶に、忘れていた怒りがぶり返された。
「知ってるの」
「助けを求める声に、敏感なんだ。場所の特定に時間がかかって、追いついたのは、君があの家に入ったときだった」
セオが目を伏せた。長い金色の睫毛が、瞳の明るさを弱める。
「だったら、もっと早くに助けてくれてもよかったんじゃない?」
自分勝手な怒りだ。
分かっていたが、ぶつけずにいられなかった。吐き出してしまわなければ、内部から身体という殻を破ってしまいそうな、激しい憤りと羞恥心がサクラを突き動かしていた。
セオが怒ると思った。むしろ、怒らせたかった。常に落ち着いた雰囲気を醸し出し、高みから見下している役人面の彼が我慢ならず怒りを露わにするほどにサクラはダメな人間だと示してもらえるなら、今生に諦めもつくだろう。
だが、セオは、さらに目を伏せただけだった。
「本国ならね、それも可能かもしれない」
セオは、表情を変えないまま自分の襟元を握った。手の甲に、骨の筋が浮かぶ。襟の端で、細い鎖が光った。
「ここでの私は、誰かの発した思念を捉えることしかできない。本来なら救えるはずのものを、黙って見ているしか能がない」
静かながら、心の奥底から吐き出すような重みがあった。
テゥアータの役人は、地郷の中では力を制限されると聞く。
非力故に力が及ばないのではない。力があっても、行使を禁じられているため、ただ傍観するしかない。さらに、目を背けても助けを求める声は心に響くのだろう。
『耐えろ』
父の言葉に、どんなに悔しい思いをしたか。それを、セオは幾度も経験している様子だった。
後悔に襲われ、サクラは頭を下げた。
「ごめんなさい」
自暴自棄になり、人をまた傷つけてしまった。己の弱さが情けない。
太く吐き出されるセオの息が、サクラの罪悪感を増大させる。
しかし、耳に入った彼の声は柔らかかった。
「これまでひとりで、よくがんばったね」
意外な言葉に、はじかれたように顔を上げた。穏やかな陽だまりの色をした瞳が笑いかけている。
温かいものが胸に広がった。
止め処なくあふれる涙は、しかし、今までと違って柔らかく感じた。幼子のように泣きじゃくる手元に、タオルが投げられる。
「遠くからじゃなくていいよ」
泣き笑い顔で言うと、セオは一歩分だけ椅子を寄せた。まだ、腕を伸ばしてギリギリ触れるか触れないかの距離が二人の間に保たれる。
「私でよければ、胸を貸そうか?」
おどけたように腕を広げるセオに、ばか、と言い返す。
「要らないわよ」
「そうだな。マサキ君ほど広くないし」
椅子の背に顎を載せニヤリと笑う顔は、彼を一瞬少年のように見せた。
泣き腫らした顔をまともに見られるのが恥ずかしく、サクラは側の粥を手に取った。
「いただいていい?」
「口に合えば」
雑穀を柔らかく煮た粥は、舌の上でほんのり甘く溶けた。
懐かしい味だ。病気がちだった幼い日に、母が作ってくれた味。傍らにはまだ、祖母もいた。優しく笑う父がいた。
満たされた毎日があった。
湯気に浮かぶ思い出の光景を、サクラはそっと吹き消した。
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