第五章 手の内から零れ落ちる

Ⅴ-1 おかえり

 土砂崩れから半月もたたない昼に、本部から物資を運んできた輸送部員が、カイト死亡の報を東守口支部へ伝えた。

 ノリナがため息をつく。


「衰弱死だって。結局、今まで分かっていること以上のことは出てこなかったみたい」


「けど、訳分からないことを言ってたんじゃなかった? 彼女は関係ないとかなんとか」

 アオイが、椅子の背もたれに体重をかけ、ゆらゆら体を前後に動かしながら応じた。

眼鏡を押し上げ、ノリナが唸る。

「例の恋人のことかな。いやいや、彼には密かな浮気相手がいて……」


「妄想が走りすぎてませんか、それ」


 マサキの指摘に、ノリナは悪戯っぽく舌を出した。


「ああ、その恋人なんですけどね」

と、輸送部員はシズクが淹れた茶を飲みながら続けた。

「親の友人宅に、赤ん坊を届けたそうですよ。親に預けてくれ、て。いやあ、なかなか考えたもんですね。実家は公安部に見張られているけれど、親の友人まではノーマークだからね」


「え、やっぱり赤ちゃんも目が青いの?」

 噂好きのノリナが身を乗り出した。


「いや、茶色かったらしいですよ。黒髪に茶色の女の子、そんな風に話しているのを聞きました」


 さらに質問を浴びせようとするノリナを遮るように、マサキは本部へ返却する分厚いファイルの原本を輸送部員に渡した。汗を拭った輸送部員は、にこやかに受け取ると、茶の礼を言って威勢良く夏空の下へ出ていく。


 玄関まで見送りに出たマサキは、目を細めた。

乾いた大通りは、日に照らされて白く輝いている。


しかし、玄関の影に立つマサキの胸の内は、曇っていた。


 赤ん坊を親に託し、藍色の目の女性はどこへ行ったのだろう。

彼女の親戚は、東守口町に住む両親以外に居らず、そちらも本部作業員により見張りがついているが、なんら報告がない。


 暗い方へ流れていく思考を消すように頭を振る。


 煙に包まれたような頭が重かった。たいして動いていないのに体がだるく、足を引きずるようにして、マサキは朝番を終えて帰路についた。


 夕方の風が、昼間の暑さを押し流していく。本当なら爽やかな、と形容できるはずの秋の気配も、マサキには鬱陶しく感じられた。


 疲労が、クモの巣のように全身へ張り巡らされている気がする。

肉体は休めることができても、カイト容疑者や藍色の目の女性、サクラのことを考えると、コウの不在も含めて気が休まらない。


 誤射により民間人を傷つけ、本部に勾留されたコウについて、最初は支部長が逐一細かい変化を教えてくれた。

しかし、変化がない日が続くと、まるでコウの存在を忘れてしまったかのように彼の名を口に上らせることがなくなった。


 このまま、誰もがあの気さくで優秀な射撃手のことを忘れ、気がつくと別の人物が配属されるのではないか。

 絡みつく不安を振りほどこうと必死になればまた、疲労が積み重なっていく。


 官舎の並ぶ通りへ出る手前で、夕飯を買い忘れたことに気がついた。しかし、市場へ引き返す気も空腹も感じられず、マサキはそのままふらふらと角を曲がった。


 俯いて歩き、歩数的にあと少しで自分の官舎だと顔をあげた。その時、隣の扉の前に人影を認めた。


 高い上背を丸めるようにして、ノブに手をかけたまま立ち尽くしている。暮色に染まった通りに溶け込むほど影が薄くなっているが、待ち望んだ同期の姿だった。


「コウ」


 呼びかけに、コウはビクリと振り返った。マサキと目が合うと、引きつった笑みを浮かべる。


「迷惑、かけちゃったな」


 いつも陽気に笑う記憶の中の彼からは想像もつかない弱々しさに、胸が痛む。


「ひどい顔だな」

「マー君こそ、めちゃくちゃ疲れた顔してるよ」


 ふに、と頬をつままれた。無理やり搾り出されたものでも、彼本来の軽口の一端が出たことで、少し安心した。


 いつも通り手を振り払おうとすると、逆に近付いたコウの体が視界に覆いかぶさってくる。口も鼻も彼の固い肩に塞がれ、肩から背へ伸びた長い両腕に抱え込まれた。

「ちょっ」

 マサキはもがき、コウの体を殴りつけようと腕を振り上げた。


「辛かった」


 耳元の声が、目の前の肩が、小さく震えている。


「俺、ちゃんと謝れなかった。子供に怪我させて、ごめんなさい、て言わなきゃいけなかったんだ。なのに、とっさに」


 背中に回された腕が、きつくなる。

このようなときに、自分の身長が低いのが申し訳ない。

マサキは精一杯腕を伸ばし、コウの腕辺りを、あやすようにポンポンと軽く叩いた。


「射撃手なら、誰もが通る道だって、ジュンヤさんもチハヤ班長も言ってたよ」


「俺が先で、良かった。マサキじゃなくて」


 え、とマサキは顔を上げようとした。コウの肩に阻まれ、目だけで鳶色の癖毛の先を見つめる。


「もしマサキが先だったら、俺、またふざけたこと言って傷つけてたと思う。俺が先だったから、もしマサキに何かあっても、ちゃんと支えられるから」


 胸が熱くなった。

同期として、ライバルとして、友人として。コウが自分のことをそれほどまでに想っていてくれることが、泣きたいくらい嬉しかった。

 だが、素直に泣くのは恥ずかしく、何度も頷いて返した。


「明日は非番だろ。ゆっくり休んで、完全復帰してくれよ」

 頭の横で、コウが頷く。


「マー君と一緒に朝を迎えられるなら、すぐにでも」

「……」


 マサキは無言で、コウの上腕部へ頭を押し付けた。コウの重心が後ろへ偏ったところで彼の左足を払い、路上へ倒す。


「それだけふざけたことが言えるなら、もう大丈夫だな」


 結局は、懲りない悪ふざけ者だったのだと、マサキは怒りさえ覚えて冷たく言い放つ。

 尻から地面に落ちたコウに目もくれず自分の官舎へ入ろうとする背中に、声がすがった。


「言い方が悪かった。違うって、そういう意味じゃないって」

 手首を掴んでくるコウの手が、激しく震えている。

「昼間は、いいんだ。いろいろ気が紛れて。だけど、夜は、未だにうなされて、怖くて」


 まくしたてたコウが、肩を上下させて荒い息を繰り返す。膝に手をあて、見上げてくる目には涙が溜まっていた。

 無言で見下ろしていると、コウが自嘲気味に頬を緩めた。


「自分でも情けないよ。無理は言わない。マサキも疲れているだろうし。だけど」


「分かった」

 扉を限界まで開け、入り口の脇に立ってコウを招く。


今コウが抱えている気持ちを正確に捉えることは、難しい。先ほどの言葉も、言い間違えたのか、ふざけたのか、本気なのか。判断が困難だった。


 ふと、脳裏に一筋の光のような姿がよぎった。


 人の思念を感じられるあの人なら、他者の気持ちを正確に知ることが出来るのだろうか。表情や態度、声色に隠された奥底の真意を、捉えられるのだろうか。


「マー君、まだ怒ってる?」


 身を縮めたまま、コウが上目遣いに顔色をうかがってきた。いつも見上げている彼の顔が目線より下にある。

 だんだんと、落ち着かない気持ちになってきた。


質問には答えず、マサキは手で中へ入るよう促す。そして、握った拳で軽く彼の肩を突いた。


「おかえり、コウ」


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