Ⅳ-2 インクの臭い

 足を踏み入れた途端、ザラリとしたインクの臭いが鼻腔をついた。遠慮がちに開かれた窓から出られない空気が、濃厚にこもっている。


 作業員が出入りのために扉を開け閉めする度、力強く鼓膜を打つ音が大きくなったり小さくなったりする。開いた扉の隙間から、規則正しく回転する機械と、目にも留まらぬ速さで滑る紙が見えた。


 文書が撒かれて一月が経とうとしている。捜索本部が公安本部内に設けられたが、依然容疑者は浮かばず、関係各所へ再度聞き込みをすることとなった。


 マサキは、地郷公安本部の捜査官と共に、東守口町のはずれにある新聞社へ来ていた。


「すごいですねぇ」

 口を半開きにしてあちらこちらを見つめるマサキに、父親と同じくらいの年齢と思しき本部捜査官が呆れ顔になる。

「見学じゃないんだから。ったく、応援要請を渋る捜査官だとか、物見遊山な射撃手とか。手が足りてなきゃ、こんな奴らと仕事なんざ、ごめんだね」

 漏らされる嫌味も、建物全体が唸っているような音に紛らわされてしまう。


 かく言う本部員も、機械室が垣間見えると口を丸くして眉を上げ、時に小さく感嘆の声をあげていた。


 作業室の隅では、数名の女性が紙片と小さな木箱を手に、低い棚の間を、腰を屈めてゆっくり移動している。時折、棚から細い金属の棒を抜き出しては木箱へ並べていた。作業の合間に、伸ばした腰を拳で軽く叩く女性もいる。眉間が黒ずんでいるのは、インクで汚れた指先で疲れた目を押さえるのが原因のようだ。


「くそ。副社長とやらは、まだか」


 本部員は、大きな欠伸を始めた。実質新聞社を切り盛りしているという副社長を呼びに行った作業員も、機械室へ吸い込まれたまま出てこない。

どうやら、最も忙しい時間帯に訪れてしまったようだ。 


「お待たせして申し訳ありません」


 ようやく現れたのは、カイトという名の若者だった。まだ二十代に入ったばかりだろうか。黒く汚れた右手を手ぬぐいで拭きながら、ふたりを奥へ案内した。


 長い廊下を進むにつれ、機械音がくぐもっていく。しかし、インクの臭いは消えない。窓が少ないせいもあるが、前を行くカイトの体に染み込んでいるのかもしれない。


「若旦那。ちょっと、いいですかね」


 この社の活版技師だという白髪交じりの男が、作業室の方から追ってきた。

「思い出したんでさ。ほれ、一年ほど前に、活字を盗もうとした女がいたじゃないですか」


 本部員の表情が、僅かに引き締まった。マサキは、そっとシャツの胸ポケットから手帳を取り出す。


 進行方向から、新しい紙の束を抱えた従業員がやってきた。壁に体を寄せ場所を譲ると、あちらも横歩きになって通り過ぎる。


「ここで立ち話もなんですから」


 カイトの招きで、技師もマサキの後についてきた。部屋までの短い間に、技師はよく回る舌で、件の女性について喋った。


「活字なんざ盗んでどうするんだって、聞いても答えやしないんだ。そこらによくいるような、若い娘でな。髪もこう、長くて。胸はそんな大きくないんだが、腰がくびれていて」


 部屋に着いても言葉は途切れない。

最初は人相など手掛かりになるかとメモをとっていたマサキだが、途中から聞き流していた。女性の特徴が、次第に、技師の下心満載なフィルターを通したものになっていくのに気が付いたからだ。


 本部員が、咳払いで技師の言葉を遮る。


「で、若旦那。こいつが言っていることは、本当ですか」


「私も、彼に言われて思い出しました。去年の春、ですね。採用の時の資料があるはずです」


 カイトは窓を背に据えられた机を回った。

この部屋は、社長室なのだろう。使い込まれた机は、ヤニが染み出た自然な艶があり、風格があった。整頓された机上には資料や伝票の他、水差しと果物が置かれ、窓の横の棚には、数組の食器や木彫りの飾りなどが並んでいる。


 机の一番下の引き出しから、程なく目的の書類が抜き出される。


「結局、活字を盗まれることは防げました。他の作業員とも上手くやってくれていたし、ほら、識字率の問題で、学歴を求められる割に、やりがいのある仕事とは言えないでしょ。常に人員募集中なので惜しかったのですが、その日を限りに辞めてもらいました」


 本部員は、生返事をしながら書類へ目を通し、マサキにも差し出した。カエデという名前と住所、年齢、職歴を書いた、一般的なものだ。


 内容を写し取る了承を得るマサキに、カイトが言葉を濁した。

「ただ、後日、働いてくれた分だけでもと給料を持って記載の住所へ赴いたのですが、空き地だったのです。近所の方に聞きましたが、数年前から家は建っていなかったとのことで」


「内容は、虚偽のものだと?」


 本部員が眉を顰めた。

「そうなると、最も有力な手掛かりは、こいつがまくしたてた人相かね」

 立てた親指に指し示され、技師がわめく。

 わざとらしいため息をつく本部員に、カイトが小さく同意した。


 見せろと言われ、マサキの手の内の手帳が抜き取られた。

「なんとも、特徴の無いありふれた女だな、こりゃ。そこらへんにウヨウヨ居そうだ」


 人相書きを出せば、かなりの数の冤罪者が出そうだ。本部員は口への字に曲げ、手帳をマサキへ放る。


 ほかに二、三の事項について確認した後、おもむろに、本部員が片手を机に置いた。若い副社長へと、身を乗り出す。


「ところで若旦那。ちょっとした噂を耳に入れたんだが。あんた、中央研究所の所員に親戚がいたってのは本当か?」


 心無しか、カイトのこめかみがピクリと動いた。


「今は絶縁しています。それに、彼はずいぶん昔に亡くなっていますし。今回の件とは関係ないと思いますが」

「なにも、本件での話のつもりじゃなかったがな」


 凄みを増した本部員の目が、ギラリと光る。獲物を確実に射程内に捕らえた顔だ。対して、副社長の顔は血の気を失っていった。


「えらい顔色が悪いじゃないか、若旦那。吐いちゃえば、楽になるんじゃないか?」


 活版技師の男が、慌てふためく。

「わ、若旦那、具合が悪いんですかい? すぐに盥の用意を」

 足音荒く出て行く彼が扉を開けると、廊下の奥から機械の唸りと喉に張り付く臭いが流れ込み、閉ざされた。再び訪れる静けさは、さっきより数段重みを増していた。


「で、どうよ若旦那」


 詰め寄られたカイトの顔に、もはや笑顔は残っていなかった。青ざめ、閉じた唇が細かく震えている。


 やがて、本部員の眼力に屈したのか、副社長は俯いた。


「裏に、今は使用していない印刷機があります。紙は、伝票の数字を書き変えて、一万枚使いました。カエデさんの件で、思いついたのです。すべて、私ひとりで行ったことです」


「どうやって撒いた」

「嵐が過ぎたあと、夜間に、予め目をつけておいた木の枝へ釘で止めました。木は、町の近くで、風上にあって」


 カイトの声は次第に掠れていく。何度も口を閉じては喉仏を上下させるが、次第に聞き取りにくくなっていった。


「オオトリの、巣の、近くに」


 本部員が怪訝な顔をする。


 マサキには、分かった。

おそらく、朝日が当たる枝を選んだのだろう。そうすれば、光を反射させる釘はオオトリの興味をひき、あの太い嘴で引き抜きにかかる。

 夏にも関わらず、背を伝う汗が冷たかった。


『ほら、こうしたら、オオトリが罠にかかるんだよ』

『すごい。マサキって、なんでも知ってるんだね』

『親父が考えたんだよ。だけどサクラだって……』


 町育ちの彼が、知っているはずがない。


「本部に来てもらおうか」


 有無を言わせぬ低い声に、カイトは素直に頷いた。しかし、空ろに目を泳がせる。


「少し、水、いいですか」

 消え入らんばかりに細い声だった。喉に引っかかる声を無理に出すかのように、咳が続く。

 本部員はやや考え、承諾を与えた。


 カイトが震える手で棚から器を取り出す間に、本部員は上着のポケットから掌サイズの機械を取り出した。豆粒ほどの突起を指先で押すと、機体に巻かれた線を延ばす。


「小さい、ですね」

 マサキがそっと声をかけると、本部員は頷いた。

「まだ試作段階だ。これで通信機の持ち運びが楽になる」

 イヤホンを耳に当て、別の小さなボタンを押した本部員が、目配せをし、顎をカイトへと動かす。

見張っていろということだ。


 カイトは、時折軽く咳をしながら、机上の水差しを傾けた。ガクガクと水差しの首が動き、大半がこぼれた。机の上から、滴がしたたる。


 ふと、まとわり付くような甘い香りを感じた。部屋中に染み付いたインクの臭いに紛れ、ほんの一筋だったが、マサキの体は動いていた。


 カイトが口をつけようとした器を払い、掴んだ手首を背へ捻りあげる。彼の喉が大きく動いた。


(間に合うか)


 本部員の驚愕を他所に、背後からカイトの腹を抱える。彼の口をこじ開けると、躊躇無く指で舌の奥を押し下げた。


 粘液が絡んだ錠剤が、床に転がり出る。


「毒か」


 舌打ちする本部員に、マサキは無言で否定した。

「多分これは、痛み止めの丸薬です。地郷内の診療所で処方されたものだと思いますが」


 腕の中のカイトが振り返る。驚きに見開かれた目が小さく左右に揺れていた。乾いた唇が動く。


「何故」


 漏れ出た声はハエの羽音にもならず、廊下を近付いてくる活版技師のわめき声にかき消されて、本部員には届かなかっただろう。


 マサキの全身から、汗が噴出した。


(しまった)


 本部員が、剣呑な眼差しでマサキを観察している。

「分かっていながら、大袈裟じゃないか?」


 確実に、なんらかの疑いを向けられている。マサキは素早く考えた。

「水差しが開いたときに、何か別の臭いがしたので。水以外のもので飲むと、良くないのではと」


 出来るだけ愚鈍な支部員を装う。マサキの誘導に、本部員は間の抜けた声をあげた。


「そんなこたぁ、貴様が気にかけてやることじゃない。どうせこれから、飲み合わせの悪さ以上のものを見舞ってやるんだから」


 もっとも、と彼は棚で発見された薬の残りを示して、残忍な笑みを浮かべた。


「これの効き目で、拷問の痛みが感じられなくなるっていうのなら、貴様の判断は正しいな」


 マサキは、背中に走る悪寒を堪え、カイトへ手錠をかける。これ以上自殺行為に及ばないよう、猿轡も噛ませた。


 地郷公安部員として一連の動作を行いながら、目の前には、薬品で焼け爛れたマリの顔がちらついて消えなかった。

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