Ⅵ-7 秘めた想い

 辛いが、間違っていないと信じている。今の自分では到底彼女を幸せにできない。だから、これでいい。


『とりあえず、今日は俺とシズクちゃんのおごりだから。まーくんは遠慮せず飲め!』


 どこかで甘えていた。サクラは決して自分の近くから離れないと。

 あちらへ行ってしまえば、二度と会えないかもしれない。そう気がつくと、胸中が掻き毟られるように痛んだ。


『マサキ、明日朝番でしょ。大丈夫?』


 あの人のことは、自分も尊敬している。叶わない。諦めもつく。だけど、全然平気でいられない。

 そんな自分が悔しい。


『ほら、酒は飲むもの。呑まれるものじゃないって』


 いっそ、自分もあちらへ行けばいいのだろうか。そうすれば、何もかも上手くいくのだろうか。


『ごめん、シズクちゃん。ここまでしか運べない。あとお願いしていい?』

『いいよ。それよりマサキ、明日出勤できるかな』

『あ、俺、マサキんとこから制服持ってくるよ。えーと、鍵……あれ? 通信機どうしたんだ?』

『落としたのかな』

『そりゃまずいよ。俺、後で探してくる』


 厚い被膜に覆われた意識で、コウとシズクのやりとりをなんとなく聞きながら、マサキは泥酔した体を横たえていた。父親譲りの酒豪と自覚していたが、さすがに飲み過ぎたようだ。時計塔の近くの酒屋で三人で飲みながら愚痴を聞いてもらった後、コウの肩を借りて店を出た記憶も定かでない。


『あったよ。失くしたらまた、支部長から雷を落とされるところだよ』

『よかった』

『じゃ、あとよろしく』


 コウとシズクにも迷惑かけてしまった。会ったとき、ふたりは男性用官舎の方に足を向けていた。きっと、今夜も二人で過ごすつもりだっただろうに。


 臭いの強い丸薬を受け取ったが、口元へ持っていく前にどこかへ転がしてしまった。テゥアータの商人が売っていた、二日酔いに効くものだろう。今ではもう、入手も困難な良薬だ。

 拾おうと体を起こすが、眩暈に襲われ、再び枕へ頭をつけた。


『飲めない、かな』


 僅かに開いた瞼の間から、心配そうなシズクの顔が見えた。彼女は、新たに出した薬を一錠口に含んだ。薬が砕かれる瞬間、彼女の顔が苦さに歪んだ。


 マサキは再び目を閉じた。むくんだ瞼は重く、意志に反して開こうとしない。


(明日、マジで仕事できるかな)


 班長にまた叱られそうだ。

 苦々しく思っていると、口の中にも苦味が広がった。ぬるい水と共に苦味が喉を通り過ぎた後に、柔らかく唇の感触が残った。



 官舎の窓に嵌め込まれているのは、硝子ではなく、細い板を斜めに組んだものだった。それだけでは風や虫を防げないので、内側に布を張る。

 その布を通し、淡い夜明けの光が届いた。


 酷い頭痛にたたき起こされ、マサキは呻くように伸びをした。


 二日酔いを体験するのは初めてだ。話には聞いていたが、実際自分の身に降りかかるときつい。

幸い、通常業務はこなせそうだと、マサキはぼんやりと考えた。


 腹部がすっきりしないが、むかつくほどではない。ゆっくり深く呼吸を数えていくと次第に治まる気がした。


 吸って、吐いて。自分の息にかぶさるように聞こえる呼吸に気が付き、はっきりと目が覚めた。

 同じ寝台で、シズクが小柄な体をさらに丸めてマサキに寄り添っていた。


(え、と)


 細くささくれた記憶の糸を慎重にたぐりよせる。


 飲んでおいたほうがいいと渡された丸薬を取り落としたあと、シズクは自分で薬を噛み砕き、マサキに口移しで服用させた。

 その唇の柔らかさとシズクの優しさに、マサキの心が揺らいだ。


『私なら、構わないよ』


 柔らかな胸に抱かれ、そのまま現在に至った経過が、確実に蘇ってきた。


 身じろぎするマサキの気配に、シズクも細く灰青色の目を開けた。


「ごめん」


 勢い良く頭を下げるマサキに、シズクは眠そうに目をこすりながら顔を赤らめた。


「具合は大丈夫そう?」

「どうにか。それより、本当に、ごめん」


 頭を上げられなかった。シズクの不思議そうな声が降ってくる。


「どうして? 私は、嬉しかったけど」

「でも、シズクはコウと」


 え、と首を傾げる彼女に、夏の緊急招集のとき二人がコウの官舎から出てきたのを見たと白状した。

 開けた口を手で覆って驚いたシズクが、普段色白の顔を首まで真っ赤にして笑い始めた。


「見られてたんだ。それでマサキ、なんかよそよそしかったんだ。違う、違うのよ」


 目の縁に溜まった涙を指で拭いながら、シズクは釈明した。


「コウには、相談にのってもらってたの。マサキのことで」

「俺の?」

「マサキ、ずっとひとりで思いつめてたから、心配で。班が分かれてから、引継ぎのときしか会えなくなったし、それもマサキ、事務的に済ませてさっさと帰っちゃうし、ご飯食べに行っても、コウとは射撃手同士仕事の話で盛り上がるけどなかなか喋れなくて」


 ずっとマサキが好きだった。付け足された言葉が、マサキを惑わせた。


「気が付かなかった」

「サクラさんのことで頭がいっぱいだったもんね。でも、謝らないでね。だって私、その一途さに惚れちゃったんだから。嫌な女だよね。マサキが失恋して悲しんでるのを見て、チャンスだ、て考えちゃうんだから」


 笑いながら、シズクは泣いていた。


 東守口支部に配属が決まってからのシズクとの関わりが、今になって鮮やかに思い出された。控えめなシズクの心遣いが、端々に潜んでいた。

 同期としての優しさだとしか感じていなかった自分の鈍感さに呆れた。


 だからといって、サクラを失った穴埋めにシズクの好意を受け入れることはできなかった。


 考え込むマサキを、二日酔いで気分が優れないと見たのだろうか。シズクは手早く私服に着替えると、朝食に粥を買いに行くと言った。


「制服、コウが届けてくれたの。そこにあるから」


 椅子の座面を示して彼女が出て行くと、マサキは太い息をついた。後悔や罪悪感が次々にのしかかり、体が重かった。

窓を押し上げ、時計塔を透かし見た。まだ朝早い。戻ってきたシズクに気持ちを伝える時間くらいならありそうだった。


 時計塔の反対に目をやると、通りをうな垂れながら遠ざかるシズクの背中が見えた。

 彼女へ伝えるべき思いを鈍い思考力でまとめながらズボンを履き替え、のろのろとシャツのボタンを留めていく。


 突然、朝の静寂に炸裂音が響いた。


シズクの後ろ姿が傾いだ。躓いたにしては不自然な形で路上へ倒れ、起き上がろうとしない。

 マサキは表に飛び出した。


 反響した銃声の出処がつかめない。見渡すと、朝日を反射させる時計塔の中腹に動く影があった。目をこらすが、外壁が反射させた朝日の眩しさにくらんで確認できない。


「どうした」


 チハヤが官舎から飛び出す。倒れたシズクを認め、即座に通信機を取り出した。

 寝起きのままのノリナが悲鳴を上げた。

 駆け寄り、まだ温かい体を抱き上げたマサキへ被さるようにして、コウがシズクの名を叫んだ。


 目の端に涙を溜めたまま呆然と見開かれた灰青の目は、どんな呼びかけにも答えることはなかった。




 室内射撃場の暗がりを、機械仕掛けの的は予想以上に素早く動いた。パターンも多様だ。中心を銃口で追う。ひとつ、またひとつ、確実に撃ち抜かれた的が倒れていった。


 シズクを撃ったとして一人の浮浪者が逮捕されたのは、事件の直後だった。出勤途中のミツキが、路上で拳銃を持っていた不審な人物を調べた結果だ。

庁舎の取調室に運ばれたシズクの遺体を引き取りにくる遺族はいなかった。親族は、テゥアータに逃れた後だった。シズクも地郷を離れるよう強く説得されていたが、残留を決めたのだと、コウから聞かされた。


 防音が施された室内射撃場に、ただひたすらマサキの放つ銃声が響く。耳を保護するヘッドホン越しに鈍く鼓膜を打つ音は、ひとかけらの慰めにもならなかった。


 犯人から押収されたのは、一般的に出回っている拳銃だった。かねてからテゥアータを憎んでいたから撃ったとの自白もとれ、それでシズクの死は片付けられた。


 的が全て倒れた。肩で息をつく。冷やされた汗が湯気となり、全身から立ち上った。

小さな合図の閃光と共に新たな的が現れ、動き始める。


 時計塔に見た影は、明らかにライフルを持った人影だった。射程距離を考えれば、ライフルなら時計塔からも届く。そう、ミツキに報告したが一蹴された。


 弾が切れた。手早く弾倉を交換し、撃つ。端しか撃ちぬけなかった的が、倒れず物陰に消えた。小さく舌打ちをし、次の的へ気持ちを切り替える。


 莚を被せられたシズクの遺体の側で、コウは長い間座り、両手で顔を覆ってうな垂れていた。本部から幹部員と処理班が到着し、ミツキと談笑する声が廊下に響いていた。現れた幹部員に、コウは殴りかからんばかりだったが、マサキは無言で制した。そして、シズクへ敬礼すると、嘲笑う幹部員に一瞥もくれず立ち去った。


 的は全て倒れた。

弾はまだ残っている。ジュンヤは確か、的と弾の数は同じだと言っていた。口を開き、肩で息をしながら、全方向へ意識を向けた。

床で影が動く。上だ。


 シズクの官舎の前に、花が供えられていた。誰が、と思っていると、三班の通信士が花を置く場面に出くわした。普段シズクを蔑んでいた彼はマサキの視線に気がつくと、通信士としての彼女を尊敬していたと、幾分突き放すように言った。言いながら、彼は目の縁を赤くした。色が違わなければ普通に尊敬できたのにと、付け足しながら。


 背後から綱に吊るされた球状の的が迫る。体をよじり、肩から床に転がりざまに打ち抜く。最後の弾だった。


 どれだけ撃っても、体を動かしても、後悔と未練は溶けることなくマサキの中で凝った。


 室内に光が差し込んだ。防音用ヘッドホンをはずすと、ぽくぽくと手を叩く音が響いていた。


「さすがは、十年に一度といわれる逸材だ。見事な腕前、見させてもらったよ」


 初老の男性の肩章は、赤地に金糸だった。地郷公安副本部長のひとりだ。好々爺に見える丸っこい顔に掘り込まれた細い目だけが、獲物を狙ったヘビのように鋭かった。


 副本部長は、後ろに従えた男を紹介した。『方舟』から視察に来た官僚だという。マサキは副本部長によって、その男に紹介された。


「公安部内に特殊警備隊を設置する予定でしてね。彼は隊員候補の一人です」


 暗がりにあった男の顔が、入り口からの光の中に出てきた。

 マサキの首筋が、ゾワリと疼いた。


 男の目は粘着性の闇を湛えていた。土気色の顔にも生気を感じられない。

まるで、生きた屍のようだった。

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