Ⅵ-5 乱れ吹く秋の風
少し登っただけで、山はすっぽり闇に包まれる。風に吹かれる草は枯れ、種を飛ばした後の茎を鳴らしていた。
肌に刺さる冷たさも、首元には入ってこない。
(まるで、君に抱かれているみたいだ)
マフラーに鼻先を埋め、セオは目を閉じた。口元に苦笑がのぼる。
生後間もなく孤児院の前に捨てられたセオには、親にすら抱かれた記憶がない。
手を引かれるのは、どこかへ連れていかれるため。笑顔で近付いてくるのは、セオの力を利用するため。
幼少期から置かれた環境のどこにも、温かさなどなかった。
必要とされるのはセオ自身ではなく、彼の持つ力。もしそれが肉体から取り出すことが可能なら、セオという人間に価値はない。
所詮自分に対する周囲の評価は、そのようなものだと感じていた。
料理やマフラーから感じられるサクラの心は温かく、何度も引き込まれそうになった。その度に脳裏を横切る過去に受けた数々の裏切りと、マサキの存在があった。
それらが、セオの気持ちを踏みとどまらせていた。
(国がこんなことにならなければ)
セオは星の瞬く空を見上げた。意識を集中しやすくするため、襟元のペンダントを、歴代の王が役人に託した力の源を握る。遠い王城で戒めの術を受け終えたであろう弟子の元へ思念を延ばしながら、別の心で思った。
(あの二人は、結ばれるはずだったのに)
山から吹き降ろす風に弄られていた髪が、重力に引かれるまま下りた。セオを取り巻く空気に、テゥアータの王城の匂いが漂う。冷たい石造りの部屋を通る、乾いた風と土の匂いだった。
「ジェイファ」
呼びかけると、地郷の草を足元に透かせた弟子の姿が浮かび上がった。
『そちらはもう夜が遅いのですね。私の都合でこのような時間になり、申し訳ありません』
悄然と額づきながら、つと、ジェイファがセオには見えない何かへ目を向けた。手を延ばし、揺り動かす。
『すみません。実は今、例の子供の世話を任されておりまして』
「王女の乳母は?」
『それが、王女様が疱瘡にかかられて、つきっきりなもので。他の大臣たちもそれぞれお忙しく、私がしばらく面倒をみることになりました』
次期王位継承者の王女もまた、力が弱かった。娘の世の安泰を願い、ガルディア王が地郷の中央研究所に密かに「作製」するよう命じたのが、この子供だ。
おまけに、生まれながらに王女の婚約者で将来の将軍となることを約束された身分だ。進んで関わりたい人物はいないだろう。
結果、王に付き従う者の中で最年少のジェイファに、厄介なお役目が押し付けられたのだと、セオは察した。
子供がぐずった。ジェイファは、セオの思念の範囲外から子供を引き寄せた。
ずっしりと弟子の肩に抱えられた子供の姿に、セオは眉を上げた。
「もうそんなに大きくなられたのか」
『じき、一歳半になられます』
淡い萌黄色の髪の子供は、顔をジェイファの肩に擦りつけながらも眠りの世界から出てこようとしない。小さな手にジェイファの枯れ草色の髪を一房握り締めていた。
「ずいぶん信頼されているじゃないか」
『まあ、それはそうなのです。日に幾度となく遊び相手をさせられて。仕事が進まず、困っております』
答えるジェイファの表情も、言葉に反してまんざらでもない様子が窺えた。
それと共に、本来の彼の力が以前に比べはっきりとしているのが感じられた。幼子のために尽力することで、もうひとつの魂アルファを抑えることが出来ているのだろう。
セオは頬を緩めた。
子供の背中を優しく摩りながら、ジェイファは交信の本題に入った。
『この前おっしゃっていた、地球人種のこちらへの移住ですが』
「どうだった」
『やはり家族以外の移住を認めるには、手続きが煩雑なようです』
「そうか」
『地球人種でありながら我らの形質を持つ人々は、それほどに増えているのですか?』
「こちらの研究では、増加傾向にあるらしい。私もかなりの数の人に会った。虐げられながらも、彼らにとって、チサトは故郷だ。苦しい判断を迫られている」
『関係部署の大臣は、比較的理解を示してくれています。形式の上だけ養子縁組または婚姻にして、住民登録後すぐに解除するのも構わないと』
セオは唸った。
大臣の対応に感謝しながらも、割り切れない己の感情を持て余した。
サクラが、テゥアータの形質を持たないことも懸念事項の一つだった。
夢で身近な人の死を予知する力は地球人種離れしているが、髪も瞳も、典型的な地球人種である。
もちろんテゥアータにも、栗毛で茶色の瞳を持つ人はいる。しかし、今回の特例措置に当てはまるかと言われると、難しかった。
『地球人種で移住希望されてるのは、どのような方ですか?』
考え込んだセオを見て、ジェイファが首を傾けた。左から右へ子供を抱きかかえ直し、セオの答えを待って見つめてきた。
たとえジェイファがセオの言葉の裏に隠した意志を読もうとしても、セオにはそれを拒む自信があった。しかし、セオは弟子の真っ直ぐな視線から顔を背けた。
「養女、にするには年が近いし。かといって、たとえ一時的にでも婚姻関係を結ぶのはどうかと思うんだ。どなたかに託してもいいのだが、彼女が解任ギリギリまで協力してくれるのを私も望んでいる。その時、適任者が現れるとも限らないし、それなりにきちんとした方に託したいし」
『はあ』
「彼女がいなければ、ここまで帰国者を増やせなかったと思うんだ。それどころか、私も危ないところを何度も助けてもらった。恩人なんだ」
ジェイファが、不思議そうに首を傾げた。枯れ草色の長い髪が、さらりと子供の顔にかかる。
『それほどまでに仰るなら、ご結婚なさればいいじゃないですか』
セオは言葉を詰まらせた。
「彼女には、ずっと思い続けている相手がいるんだ。互いに思いながら、結ばれない状況にある相手が。それなのに、移住のためだけに望まない結婚を強いるのもどうかと」
俯くと、柔らかい編地が頬に触れた。変に顔が火照り、目の奥が熱くなる。本当に流感の走りに当たってしまったのかもしれないと、額へ手の甲を押しつけてみた。
透き通った手が、目の下を掠めてマフラーに触れた。ハッとして顔を上げると、弟子は柔らかく微笑んでいた。
『望まない婚姻だと、思いませんが』
「え?」
『すみません、この子をベッドへ連れて行く時間なので、火急の用がありませんでしたらこれで失礼させていただきます』
子供の後ろ頭を手で支えながらお辞儀をする弟子の笑顔は、どこか悪戯っぽかった。セオは慌てて身を乗り出した。
「ちょ、待て」
『あなたの奥様にお会いするのを、心からお待ちしております』
一方的に交信が切られた。延ばした指の先で、透き通ったジェイファの姿が消えた。山から吹き降ろす冷たい秋風が、王城の空気を一瞬にして散り散りに飛ばしていく。
「勝手に決めるなー!」
ありたけの声で叫んだところで、王城に届くはずもない。弄られ乱れた髪も上着もそのままに、セオは草の上に手をつき、肩で息をした。
顔が熱い。
吐く息を数えながら、思いのままに拡散させてしまった力を徐々に回収していく。いつもより時間がかかった。
山裾から山頂まで広がった力の範囲をゆっくりと、薄布をたぐるように集めていく。
木々のざわめき、眠っている動物の言葉にならない安らぎ。諸々の思念に小さくかかりながら己の思念をまとめていく。
最後に一筋、濃く残る思いがあった。
「いつからそこに居た」
振り返らなかったが、背後の彼女が罰の悪そうな顔をしているのが手に取るように分かった。
「だって、家を出るときのセオって、危なっかしかったんだもの」
手にしていた拳銃を仕舞う動作から、嘘はついていないのだろう。セオは浮かしていた腰を下ろした。
「で、どこから聞いていた」
「風が強かったし、あなたたちの周りだけ空気の流れが変で、あまり聞こえなかった」
肩をすくめるが、セオが再度同じ問いを突きつけると、サクラは僅かに頬を染めた。
「移住するには、結婚するのが早いってこととかなんとか」
セオは頭を抱えた。どうして一番聞かれたくない部分を聞き取っているのかと、罵りたくなった。しかし、辛うじて残った理性が、彼女のせいではないと押し留める。
「そう、いうこと。君がもし本当にテゥアータへ移住したいなら、私と夫婦になるのが面倒が少ないということだ」
「いいけど私は、それでも」
ストンとセオの近くに膝を落とし、サクラは顔を覗き込んできた。
「セオは、嫌なんだ」
「私に、マサキくんの代わりなどできない」
サクラの目の奥にギラリとした光が走った。襟首をつかまれ、セオは呻いた。
「そんなの求めてない。求めたことなんてないわよ。どうして分かってくれないの」
「ちょ、サクラさん、近い」
引き寄せられ、まさに目と鼻の先に怒りに染まったサクラの顔があった。逃れようとするが、無駄な抵抗にしかならない。それでももがいているうちにバランスを崩し、セオはサクラの勢いに押されて倒れた。
「サクラさん!」
抗議の声をあげる口の端に、塩辛いものが落ちてきた。一滴、また一滴降ってくる涙の雨を、セオは呆然と見上げた。
どうして、とサクラが続ける。
「マサキのこと忘れられなくて、それでもどんどんセオのことも好きになって、どうしたらいいか分からなくて」
「うん」
「このままセオと一緒になっても、心が伝わって、隠し切れなくて嫌な思いをさせるかもしれない。それでも一緒にいたいって思ってること、どうして分かってくれないの。人の心を読む力が使えるくせに、どうして」
体の力を抜くと、草地が火照った背中を心地よく冷やしていった。
分からなかったのではない。知っていながら、受け入れたくなかった。
セオは覆いかぶさる彼女から顔を背けた。
「いいのか、私なんかで」
「セオは、私のこと嫌い?」
逆に問われ、答えに困った。
恋愛感情以前の好意を誰かに向けたり向けられたりした記憶がない。そもそも己の中に渦巻く彼女への思いに名前があることすら意識したことがなかった。
返答を催促され、セオは目をそらしたままぶっきらぼうに答えた。
「ずっと一緒にいたいとは、思う」
「よかった」
胸部が圧迫され、変な声が出た。
激しい思念の渦が、気の緩みで開かれていた心に怒涛の勢いで流れ込んだ。痛みに似た感覚に襲われ、セオは目を瞑った。
激流に飲み込まれ溺れるときと同じように、すっかり流れに身を飲まれると急に辺りが穏やかになった。どこまでも開かれた真っ直ぐなサクラの心にあるのは、セオへの温かな気持ちと、糸のように細くたなびく不安だった。
その中にあって、セオは消えない気泡に閉じ込められている自身を見出した。常に外部と隔絶できる殻に閉じこもり、孤独を感じながらも外へ出られない小さな存在。
怖かったのだ、と気がついた。
人の好意にすがった途端に突き放されるのではないかという恐怖。幾度も繰り返えされた経験から身についた自衛方法が、心を閉ざすことだった。
唇に柔らかなものが触れた。サクラの口付けだと分かった刹那、反射的に身を強張らせた。
セオの緊張はサクラに伝わったのだろう。唇はすぐに離れた。
目を開くと、彼女は不安そうに、だがはにかんで見つめてくる。標準的な地球人種の色を持つ瞳に映っていたのは、セオだけだった。
さらに体を寄せるサクラを制し、セオは首を上げた。項に手をやり、ペンダントを外す。
ふつりと、何も感じなくなった。懐かしい静けさの中に、セオ自身の想いだけが漂った。
「外しちゃっていいの?」
「良くない。だけど、私が耐えられない」
ぎこちなくサクラを抱き寄せた。
これ以上、激しいサクラの感情の渦に身をゆだねれば、セオの魂は残らず彼女に飲み込まれてしまいそうだった。
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