Ⅶ-3 櫛を贈る意味

 朝から二組のテゥアータ人たちを飛空間へ送った。

 二組とも、地郷を覆う界の綻びから引き込まれた人々だった。セオの地郷滞在は残すところあと四日。その後に引き込まれる人を出してはならない。


(これも、どうにかしないとな)


 役人リーディとして地郷に派遣されたとはいえ、王城でのセオは一介の魔導師にすぎない。本来なら、次期魔導師次長と目される人物が就任するところ、諸事情でお鉢が回ってきただけだ。城に戻っても、王政に影響力を及ぼす権限は少ない。

 今まで関わりを避けてきた大臣たちに申請を出したり、時に意見交換や根回しをすることが出来るのか。考えただけで胃が痛んだ。


 帰宅時に、サクラの側でハジメのあどけない思念を感じ取るのが最大の癒しになりつつあった。日に何度も家に寄っては、サクラに笑われた。


 次のポイントには、隠れ家の側を通るのが近い。理由をつけながら、セオは上着のポケットを押さえた。


(喜んでくれるかな)


 サクラは家の中で繕い物をしていた。

 針仕事は大の苦手だが、セオの魔導師の外套がひどく痛んでいるのを嘆き、針を手に取っていた。時に白刃が交わされる修羅場に持ち合わせていた外套は、裾が大きく裂けていた。


 血の滲むサクラの指先を労わり、緩やかにうねる栗毛を撫でてセオはポケットのものを取り出した。


「さっき送った職人に売ってもらった。もしよかったら、使って」


 櫛だった。テゥアータでよく使われているもので、固い木を削った四角張ったものだ。持ち手部分に、五弁の枝花が透かし彫られている。

 差し出すと、サクラの顔が喜びに輝いた。


「嬉しい。お母さんが持っていたみたいな櫛、ずっと憧れてたの」


 早速髪を梳く姿に、目が細くなる。胎内から浮かぶ思念も、ほわほわと軽い。


 長い間手指でしか整えられていなかった栗毛は小さなもつれがたくさんあり、櫛通りがよくなるまで時間がかかった。しかし、歯にかかるもつれに顔を顰めながらも満ち足りたサクラの笑顔を見ていると、気持ちが安らいだ。


「ね。櫛を贈る意味って、知ってた?」


 つと手を止めてサクラが問いかけた。首を傾げると、クスリと笑われた。


「地郷では、求婚の意味があるの。テゥアータではそういうの、ない?」


 聞いたことがある気がした。それでセオに櫛を売った商人が始終ニヤニヤしていたのかと合点した。

 ならばと、セオはサクラの足元に跪き、その針で刺した傷だらけの手を取り甲に口付けた。


「君は私の最愛の人だ。私と結婚してくれますか」


 厳かに垂れた頭を、サクラが胸にかき抱いた。


「喜んで」


 いつもより柔らかくうねった栗毛が、セオを優しく包んだ。


 幸せとはこのようなものかと、心に満ちる温かさを噛みしめながら立つと、サクラが思い出したように荷物を手にした。

 万が一のときいつでも逃げられるよう、貴重品をひとまとめにしている。その鞄を引き寄せ、櫛を丁寧に仕舞うと代わりに一枚の紙を取り出した。


「レンさんが、三人保護しているって」


 東守口町郊外の住所が記されていた。数回目でなぞり完全に暗記すると、紙を細かく千切って竈の熾きへ振り掛ける。小さな炎がパッと上がった。



 夢に現れた商人を送る夕方になった。春の訪れを感じる暖かな風が吹き、枝先を膨らました桜の枝が揺れていた。


 約束の場所に着くと、件の商人はすでに物陰に隠れて待っていた。彼はセオの姿を認めると、震えながらすがり付いてきた。


「息子がまだ見つかりません。あと一日、一日でいいのです。探させてください」


 夢で見た姿より、やつれて疲れきっているように見えた。心が痛むが、セオは首を縦に振らなかった。


「あなたは、自身をとりまく状況の厳しさを分かっておられない。残念ですが、今すぐに帰国していただきます」


 破れた屋根から見える空はすでに、藍色に染まり始めていた。商人は項垂れ、少ない頭髪を掻き毟った。熱にうかされたように、ぶつぶつと何か呟き、時に奇声を発する。


(急いだ方がいいな)


 周囲に住民が少ないといっても、誰がどこで聞いているか分からない。セオは飛空間の役人アヴェを呼んだ。


『かしこまりました』


 返答に頷いたセオは、ぞくりと背筋を震わせた。

 殺気だ。強い殺気が近付いてくる。セオは急いで商人の口を手で覆い、鋭く囁いた。


「何者かが近付いています。隠れて」


 役人アヴェにも異常を知らせ、待機させた。

 殺気は次第に凄みを増し、ゆっくり移動した。獲物を狙って路地裏を隈なく見て回っているのか、ヘビが体をくねらせるように近付いてきた。


「ヒィ」


 堪えきれず悲鳴を漏らす商人に上着を被せ、セオは歯を食いしばった。


(気付かれませんように)


 願いが届いたのか、一時は空き家の前に立った殺気は反れ、遠ざかっていった。

 胸を撫で下ろし、冷や汗を拭う。すぐさま役人アヴェを呼んだ。


 部屋の中央に光の帯が下りた。


「急いで」


 商人の腕をとるが、彼は腰が抜けて動けない。やせ細っていても成人男性の肉体は重く、非力なセオは立たせるのがやっとだった。


「もう少し、近付けませんか」

『頑張っているのですが』


 すまなそうな役人アヴェの思念に合わせ、立ち上る飛空間へのきざはしがゆらゆらと動いた。


 商人はすっかり気が動転しており、ともすれば暴れてセオの腕からずり落ちそうになる。


 背後で扉が軋んだ。振り返ったセオはそこに、夢で見た少年の姿を認めた。

 少年の細い目が一層細まり、薄い唇が残忍な笑みを形作る。


『リーディ』


 飛空間でアヴェが叫んだ。思念が近い。彼もまた、危険を承知でセオを手助けをしようと、ギリギリのところまで近付いているのだ。


 少年が、背負っていた弓と矢を手にした。


 動転した商人が喚く。めちゃくちゃに振り回される腕をかいくぐり、セオは彼の腰帯を掴んだ。サクラに教わった武術の要領で商人の足を膝で押さえ、そこを支点に回転させた。

 商人の姿が消えた。


 少年は虚を突かれ、動きを止めた。それも、一瞬だった。


『リーディも早くこちらへ』


 危急の事態だ。

セオは飛空間へ踏み出した。着地した足に激痛が走る。体が傾いだ。先ほど無理に商人を移動させたとき痛めたようだ。


 弓弦が鳴る。


 反対の足で床を蹴り、飛空間へ手を伸ばす。


『早く』


 指先が消えた。

と思った瞬間、後ろからの衝撃にセオは息を詰まらせた。


 飛空間がぶれる。倒れたセオの手の先で光の帯が揺らいだ。


 弓を手にした少年が、勝者の足取りで玄関をくぐる。鞘が捨てられ、刃が冷たく光った。

 彼を飛空間へ入れるわけにいかない。


「行って、ください」


 セオは、どうにか界の位置を調整しようと奮闘する役人アヴェへ伝えた。飛空間から、アヴェと商人の狂ったような悲しみが漏れ出てくる。


 さらに遠いところから届いた泣き叫ぶ思念に、セオは顔を上げた。


(アルファ、か)


 アルファが泣いていた。怒りを、憎しみを撒き散らしながら後悔にかられていた。セオは苦笑した。


 全ての災いの種を撒いたのはアルファだ。それなのに結果を受け入れることができない。幼稚なのだ。

 彼がミカドを操らなければ、地郷の民はテゥアータ人への憎しみを思い出さなかったかもしれない。両者の間に友好は保たれ、幾人もの人が犠牲にならず済んだかもしれなかった。

 歪められた地郷へセオが役人リーディとして派遣されなければ、背に矢を受けることもなく、平穏に任期を終えたであろう。そもそも、平穏ならばセオ以外の適任者が任命されていたに違いない。


 しかしまた、サクラやマサキたちに会うこともなかっただろう。彼女たちと過ごした数年の出来事は、セオにとってかけがえのないものになっていた。


(君を、恨んじゃいない)


 不思議と微笑が浮かんだ。


 思念を閉じる。同時に、飛空間へ続く光の帯も消滅した。


 脇腹に熱さを感じた。喉を通る息が声にならない。生温かさが床を伝い、腹を中心に染みてきた。手足の先の感覚が急速に鈍り、身動きがままならなかった。


 血のしたたる刃が振り上げられた。


 外で悲鳴があがる。いくつもの足音が近付いた。

少年が舌打ちをし、踵を返した。


 空き家は静まり返った。


(帰らなきゃ)


 腕に残る力で這うが、思うように動かない。

視野が霞んだ。体が変に痺れる。一度床に横たわると、頭を上げることすら出来なくなった。


(サクラ、すまない)


 後には静寂と、血の臭いがセオと共に残った。

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