Ⅶ-2 未来を変える
セオは、帰国希望者の待つ家へ急いでいた。時間が迫っている。薄暗い路地裏を抜け、目指す家が見えてきた。
玄関が細く開いている。嫌な予感を抱えて足を踏み入れると、頭髪の少ない商人は仰向けに倒れていた。
その胸には、深々と矢が突き立っている。
彼の亡骸を見下ろし、セオはうな垂れた。
あと七日欲しいと帰国の延期を申し出られたとき、断りきれなかった自分を悔いた。彼の未練となった息子は、未だに見つかっていない。七日待つ意味はなかった。
見開いたままの商人の瞼を下ろし、近くにあった上着を被せてやる。
背後から影が差した。
振り返る間もなく、セオは背中に重い衝撃を受け、呻く。
倒れるとき、弓を手にした少年の、冷ややかな笑みが見えた。
目を開けた瞬間、喉がヒュと鳴った。全身から汗が噴出している。呼吸が荒い。背中に感じられるのは矢ではなく、薄い寝具とその下の固い床だった。
(夢)
異様に生々しかった。商人の流す血の臭いが、まだ鼻の奥に残っているような。
鼓動が激しく胸を打つ。水を飲もうと体を起こして、寝台から身を乗り出すサクラと目が合った。
彼女もまた、びっしょりと汗をかき、怯えたようにセオを見下ろしていた。
セオは、全てを悟った。
先ほどの夢は、サクラのものだ。人の死を予知する彼女の見た夢。
寝台へ這い上がり、サクラの細い体を抱きしめた。寒さのためではなく震える背を優しく撫でる。
「大丈夫だ。変えられる。あの商人に会うとしたら明後日だ。会ったら必ず、帰国日の延期を断るから」
セオの言葉に何度も頷きながら、サクラは嗚咽を漏らした。不安、恐怖、罵り。あらゆる感情がセオへ流れ込んだ。
大丈夫と繰り返すしか、なす術がない。本来の力を使えたなら、彼女の心へ作用して苦しみを和らげることが出来るが、ペンダントに込められた王の力では不可能だ。
悔しさを噛み締めながら、尚も背中を撫で続けた。
「ほら、ハジメも君を心配している」
そっと腹部を摩ると、サクラはようやく頬を緩めた。セオの上から手を重ね、愛しそうに俯いた。
「優しい子ね」
「君の子供だもの。優しいに決まっている」
頷く顔を隠す緩やかな栗毛が、月明かりを含んで銀色に縁取られた。
生え際へ唇を寄せながら、セオは予てから考えていたことを提案した。
「君たちだけ先に帰国しないか? あちらの役人にも話を通せそうだし、そのほうが安全だと思う」
「だけど、セオが」
サクラが唇を噛み締めた。瞬きと同時に涙がこぼれる。細い指先で顔を拭うと、サクラはセオの首へ腕を回してきた。
「私たちがテゥアータに行った後、セオに何かあったら嫌。できるだけ一緒に居たい」
「分かった」
「逆に、セオが危ない目に遭ったら、その飛空間てところに逃げて」
魔導師であるセオは、飛空族の能力について詳しくない。テゥアータ国内なら、彼らは自由に行きたい場所に空間を繋ぐことができるが、王の力による導きを失った地郷へ再び繋ぐことが出来るのか、分からない。濃霧の中へ飛び降りるようなものだとしたら、危険だ。
それでもセオは頷き、サクラと唇を重ねた。
帰国まで七日となった、その日の昼過ぎ。
思念を辿って行き着いた家を前にして、セオは深呼吸をした。夢で見た家に間違いない。
扉を叩き名乗ると、細く扉が開いた。夢で見たとおりの、頭髪の少ない色黒の商人がギョロリと目を動かし、セオを迎え入れた。
「はぐれた息子がまだ見つからないんです。確か、
頭を下げる商人の涙に、セオの心はつい揺らいだ。胎内にいる我が子のことすら愛しくて仕方ない。商人の息子が何歳なのか知らないが、今まで大切に育ててきた愛しい肉親に違いない。
しかし、頑として譲らず、冷酷な役人を演じた。サクラと、生まれ来るハジメのためにも未来を変えなくてはならない。
「なりません。私とて、いつ何時襲われるやもしれません。今すぐにでも帰国してください」
「そんな無体な。せめて六日間」
すがりつく手は、骨ばっていた。冬にも関わらず襟元の大きく開いた薄手の服から、浮かび上がる肋骨が呼吸に合わせて上下していた。
ろくに食べることも出来ず、はぐれた息子を探しているのだろう。人として、胸が痛んだ。
結局引き出せた条件は、四日後の日没での帰国だった。それでもセオは満足した。
これで未来を変えることができる。残る七日間をやり過ごせば、三人でテゥアータに移住し、新しい生活が始まるのだ。
すがりつく思念に、セオは急いで周囲を確認した。帰国まで五日となった夕方のことだった。
「どうした、ジェイ」
小声が終わるより早く、木立を透かして弟子の姿が現れた。町外れの林の中で、弟子は枯れ草色の髪を乱して涙を流した。
『魔導師長が、お亡くなりになりました』
ジェイファの肉体に宿るふたつの魂について、セオの次に理解を示してくれた人物の死に、セオは頭を垂れた。彼の後ろ盾をなくしたとあっては、セオが帰国した後のジェイファへの対応も、今までのようにいかないかもしれなかった。
『私のせいです』
「ご老体だったのだ。君のせいじゃない」
『私が、彼の出現を抑え切れなかったのです』
泣き伏す弟子を、セオは呆然と見下ろした。
『一日も早く、帰国なさってください。私にはもう、彼を抑えることが出来ない。失っていた意識を取り戻したときに、ルークが、あの子が怯えていたのです。近いうちに私はきっと、あの子にも災いをもたらしてしまいます』
「落ち着くんだ」
セオは、彼の肩辺りへ手を置いた。実体のない影故に、上手く位置を調節しなければならなかった。
ジェイファが、切れ長の目を見開いた。やがて、その顔に淡く笑みが浮かんだ。
『変わられましたね、貴方は』
「そうか?」
『貴方から誰かに触れられるのは、初めてではないでしょうか』
うっとりと目を閉じる弟子の表情に、そうだったかもしれないと思った。
触れれば思念は伝わりやすくなる。自ら、己の心の底へ人を招くことは極力避けていた。
「チサトに来たからだろうか」
『奥様のお陰ではないでしょうか』
まだ正式に結婚したわけではないが、ジェイファはサクラを「奥様」と呼ぶ。
くすぐったく思いながら、セオは弟子の気持ちをなだめるために息子の話をした。
「ハジメと名付けた。私にとって、初めての家族となるのだから」
『もう名付けになったのですか。出産は命がけと聞きますよ』
さすがに呆れ顔の弟子に、セオは肩をすくめた。
「はっきりとした思念があるのだから。呼べるほうがいいじゃないか」
『まあ、そうですが』
「大きくなったら、ルークの遊び相手にもなれるかもしれない。そのときはよろしく頼むよ」
ジェイファもだいぶ落ち着いたようだ。深く叩頭し、取り乱して思念を送ったことを詫びた。
『あと五日もすればお戻りになられるのに、私には何年も先に思えます』
「君はもっと自信を持つべきだ。アルファは君の分身であって、君を越えた存在ではないのだから」
励ましがどこまで届いたか分からない。弟子の思念から完全に不安を払拭するには至らなかった。
ジェイファが、もうひとつの魂アルファに向き合えるように。そして二つの魂が正常な一つの魂に統合されるようにすれば、アルファによって歪められた地郷とテゥアータの関係も少しは改善されるだろうか。
双肩にかかる重圧を持て余した。
(無事帰国しても、難題が山盛りだな)
サクラにとって、テゥアータ国での生活は今までとまるで勝手の違うものになるかもしれない。仕事に追われながら彼女を支えることが出来るか、不安になった。それでも、自分が支えなければならない。セオには、頼る親戚もいないのだから。
襟元を握った。
(出来ることをやるしかない)
遠く近く、帰国を望む思念が瞬いた。初春の日が傾き始めている。セオは足早に次の帰国希望者の元へむかった。
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