第46話 ナルキッソスのくちづけ
夜カフェの次の日は、特別におやすみの日曜日。
何故なら毎年この時期は、とある田舎のワイナリーに招待されているからなんですって。
今年できた葡萄酒を片手に、天からの恵みを祝う収穫祭。
「結花も一緒に行こうね」
誘ってもらって時雨さんと恭さんと三人で列車に揺られていく。本当は車で行かないと不便なところだけど、ワイン飲みに行くから帰りの運転がだめなのです。
恭さんがめずらしく寡黙だ。いつも私をからかうような目で見るのに、今日はしんとした横顔で窓の外を眺めている。
怒っているのかと思ったけど、瞳の色は優しいから、それは違うみたい。まるで流れる景色と同化したようにやわらかく。
黙っていると睫毛の揺れすら優雅で、美しいなと素直に想ってしまう。
わずかな陽が射す曇りの中を列車はゆっくり進んでいく。窓の外にはコスモスが揺れている。つられているのか、時雨さんも何も喋らない。
三人が並んで座れる席に、私をはさんで二人が座っているの。私は時々交代で二人の耳からイヤフォンを借りて、両方の音楽を聴き比べてみる。私のこの甘えた行動で、大切な人たちを繋げているみたいで勝手に嬉しくなる。
時雨さんはフォーレを聴いていて、恭さんはどこかなつかしい甘めの洋楽。
曲名を覗いたら、The Lovin' Spoonful「Rain on the Roof」ですって。
「偶然知ったんだけど、かなり前の曲らしい。カフェのテーマ曲っぽいだろ?」
片頬を上げてウィンクするのが、やはり恭さんらしい。
カフェ『雨の庭』であり、私たちの曲。
君がすきだよ。スプーン一杯分ね。そう言われたみたいに。まるくて、甘くて、かき混ぜるもの。
*
駅からかなり歩いて、急斜面の葡萄畑に到着した。もう収穫が終わって葡萄の粒は残っていないけど、まだ葉は枯れずに緑の割合が多い。
その丘の向こう側にレンガ造りのワイナリーの建物があった。中はヒンヤリとして一筋の光が射して、ステンドグラスが美しい教会のよう。
髭のソムリエが「テイスティングはグラスは持ち上げずにテーブルに置いたまま、そっとグラスの台の部分を揺らしてみて下さい。それから口にお含み下さい」と言うので、その通りにしてみる。誓いの儀式のように厳かな空気が流れる。
できたてのワインのフルーティ具合。光が舞うように、新しい香りがふわっと立ち昇る。背筋をピンとさせて、清々しい気持ちになっていく。何故だか今日は神妙な心持ちになる。
人混みが苦手な私たちは、いつしか葡萄畑の端にある木のテーブル席を見つけて、そこに移動した。
時雨さんはゆっくりカメラのシャッターを切りながら、何か手帳にメモ書きをしている。恭さんはスケッチブックと色鉛筆を取り出して、丘の絵を描いている。
今日は暖かいから二人とも白いシャツ姿で、葡萄畑から吹いてくる風にはためく後姿に、私はただ見とれている。
ワインが効いてきて、ぼんやりと眠い。
「あ、またこの子おねむになっちゃった」
「ブランケットかけとかないと、風邪ひいちゃうな」
うつらうつらしていると、二人の声がだんだん遠くなる。ぽわん。
*
夢を見ていた。森の奥に木の小屋があって、私は外からその窓をのぞきこんでいる。煮込まれたお鍋からおいしそうなシチューの香りがしてきて、思わず唾を飲み込む。湯気が上がって、少しずつ窓が曇って見えなくなっていく。あれ、テーブルにいた二人はどこ。
はっとして目が覚めた。夢、だよね。あれ、でも周りが真っ白。これって霧なのかな。いつのまに? 雲の中に置き去りにされてしまったみたいだ。
かき分けると少しずつ視界が開けてきて、見えたものに戸惑う。
心臓がどきんとして、体が硬直してしまった。
二人の時雨さんが、キスしている。相手を求め合うように。
それはまるで合わせ鏡で、ナルキッソスのくちづけのようだった。
ギリシャ神話。ナルキッソスが水面を覗き込むと、そこには美しい少年がいた。
それは鏡に映った自分。自分に自分で恋に堕ちる。もう二度と離れることもできず、そこに咲く水仙の花、ナルシスになる。
霧の中の二人は、二人ともそのナルシスのようで、美しくて近より難い。
頬に手を伸ばし、手を取り合い、慈しむように。二人はそれぞれ別の人間でありながら、互いを求めて一つになろうとする幻影に見えた。
「本当の私を知ったら、結花は、私をきらいになる」
その言葉の意味は、こういうこと?
二人が私の方を振り向いた。確かに目が合ったのに、何も見なかったかのように、再びくちづけをはじめる。まるで私に見せるかのように。
そろそろ私たちの正体を明かそうか。そんな声が確かに聴こえた。禁断の果実。
*
「起きてる? 結花?」
帰りの列車の中で、無意識のうちに通路をはさんで反対側に座った。膝を抱えて小さくなった私のところに、二人がやって来る。
聞いてくれる? そう言って、私の左手を両手で包むのは菜月さんだ。
私が愛しているのは恭だけだ。今までも、きっとこれからも。
ずっとそう思って生きてきた。そして、私の片想いだと思っていた。
恭が女の子を抱くと、私にはわかる。苦しい、甘い、空しい、伝わって来るダイレクトな手触り。
そんな時の恭の顔が見たい。知りたい。一人でずっと悶々としていた。
そんな自分が嫌で、もう逃げたかった。だから、高校を出てすぐに家を出て一人暮らしをはじめた。
私の右手を握ってから、恭一さんも話し出す。
菜月だけじゃないよ、俺もだ。そう伝えに行って、この手に取り戻したかったけれど、菜月は
互いが他の異性とふれあうと感じるその現象は俺にも起きていて、菜月が思い余って境にはじめて抱かれた夜は、自分を喪失するくらいの苦痛を味わった。
なぜ、あいつなんだ。俺がいるだろうにって。滑稽だよな、兄妹で、双子で、誰にも許されないのに。
二人が交互に想いを告げるのを、私は受け止め切れないままに、ぼんやりと聴いていた。夕闇に堕ちていくのは景色だけではなく、私の沈んだ心。
恭も私を愛してると知った時、私はもうそれで十分だと思った。願いは叶ったから。
けれどもう人生は終わりだ。もしも私が恭と合わさったら、きっとぴったり合い過ぎて、ロックがかかって外せなくなると思って、私は怖かった。だから境に頼んで形を崩してしまいたかった。誰でもいいわけじゃなかったんだ。
俺はそれが理解できなかった。もう二度と外れなくなるなら、それならそれで構わなかったのに。
タブーなんてどうでも良かった。不吉なことが起こるとか、誰かに決められた謎の仕来たりより、菜月に裏切られた方が辛かった。だから無理矢理、離れることにした。
そのあと恭は他の女を探し始めた。誰かと寝ると、夜中に私の中にリアルで残酷な感触として響く。だから、私はアメリカに渡った。
けれど、遠くに行けば薄くなるという思惑が、より恋しさがましてしまうなんて。顔も見えないところにいて、性反応だけ強くなるだなんて、まるで拷問だったよ。
俺も同じだった。必死で耐えていたけど、もう限界で。境に告白して、菜月を迎えに行ってもらった。傍にいないと、精神的にも肉体的にも参ってしまう。
私たちは無理に離れられないことを知った。けれど、強固に惹かれていても、未だに抱き合うこともない。互いが互いの相手にすることを感じて通じてきた。稀有な人生だ。
世の中の男女の双子がこんなんだったら、みんな生きていくのが辛いだろうな。もう狂ってるんだ、俺たちは。だけど。
結花が現れて、景色が変わった。
君がいてくれたから。
結花がいたら、大丈夫な気がした。
*
苦しかっただろうな。いや、現在進行形で。
わからない。わからない。けれど。
私の目から勝手にどんどん涙がこぼれて、ほんとは拭いんだけど、二人に手を握られているから、できないよ。
代わりに二人が受け止めてくれる。あふれる涙がつたう頬に手をよせて。
そんな日々に希望をくれたのが、結花だった。なぜだか、甘くてしあわせになる。
君を通して、より結びつく。そして、君がもっとすきになる。はじめての感覚だったんだよ。
ね、私たちの、恋人になってくれないか。
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