第10話 スプーンに時雨
「結花ちゃん、バイト休みだよね」
今日は金曜日。私はカフェの定休日の水曜と、特別に金曜におやすみをもらっている。
月・火・木の授業が終わった午後から閉店時間の20時までと、土日の半日が私の勤務時間。用事がある時は遠慮なく休んでいいよと言われていて、学校の行事や試験期間はそれに甘えている。
ここで働くのを決める時に一つお願いしたことがあったの。
平日の一日でいいので、お客さんとして来る日を残しておきたいんです。その日は私はカフェのホール係ではなくて、外側からここをきちんと見つめていたいと。
カフェは大学からも近いから、授業の準備が忙しくなければ学食じゃなくてランチをゆっくり食べに来る。或いはお茶の時間に甘い時を過ごしたりしたい。ずっと大切にしてきた場所だから。
ほぉっとため息をついて「雨の庭」を眺めたり、カウンターから時雨さんのラテアートを覗き込んだり、今まで通りただの一人のお客として存在する時間がほしい。そう頼んだの。そのための金曜日。
「はい。今日は夕方お茶しに行こうと思ってます」
「あ、それだけどね、予約が入ってるから、今日は夜7時頃に来てくれないかな。そのあと一緒に帰ろう。食事でもどう?」
それってデートみたい! 嬉しいな、わぁーい。
そんなお誘いを受けたので、今朝は着ていくものにめちゃめちゃ悩んでる。
ワンピース可愛いかなって思ったけど、いつも大学にはカジュアルな格好して行くのに、からかわれそうな気もする。チェックが厳しいゆかりに、今日は何かあるの?って、聞かれそう。一度戻って着替えてから行こうかなぁ。どうしよ。
クロゼットの鏡に向かって代わる代わるお洋服を当ててみる。時雨さんの隣にいて似合うのってどんな感じだろう。私はやっぱり子供っぽいだろうか。
結局、授業が終わってから一度部屋に戻ることにした。霞んだ白地に青紫の花が散っているフレアーのワンピースを選んだ。
少し地味だけど、私の持ってるワードロープの中ではいちばん大人っぽいと思うの。ビーズで作ったピンクの花のピアスと指輪を合わせて、いつもより女の子らしく見えるかな。
7時頃はもう暗くなりはじめてる。ドキドキと、気持ちだけが逸る。
坂の上から観覧車に飛び込むように歩いていく。走って加速をつけてしまいたくなるけど、転んだら大変だから速足でがまんね。
カフェについたら「本日7時より貸切」って張り紙がしてあるよ。あれ、じゃあ、忙しいんじゃないのかな。
「あ、来た来た」
時雨さんがウィンクして庭に面した席の方を指さした。はぁい。
座った途端、お店の照明が落ちて暗くなる。
キッチンの方からワゴンがゆっくり押されて入って来た。あれは……。バースデーケーキ? ローソクいっぱいに火がついている。まさか?
「じゃあ、春生まれの5人出てきて。結花ちゃんも」
ジローさんに呼ばれた人たちが前に集まって来た。その中には時雨さんもいる。
「はい、まずはみんなで火、吹き消して」
ハッピバースデートゥーユー♬の音楽が鳴ってる中で、促されて私も一緒にふぅーっと息を吹きかける。時雨さんのすぐ横で。
「おめでとー」とみんなの祝福の拍手が鳴る。
「結花ちゃんははじめてだったね。3ヵ月に1回スタッフの誕生日を祝う会をやってるんだよ。今回の6月は4・5・6月生まれのためのね。結花ちゃんは明日誕生日だね」
「知ってたんですか」
乾杯のスパークリングワインを手渡してくれた時雨さんに、私は驚いて訊ねた。
「履歴書見てるから」
あ、そっか。そして時雨さん、4月生まれだったんだ。春の雨なんですね。
テーブルいっぱいに並んだオードブルやサンドイッチがお花畑の中の果実のよう。摘んで収穫して楽しんでしまおう。そして、ブルーベリーがいっぱい入ったバースデーケーキを切ってもらって、ぱくり。最高においしい。
「はい。女の子には特別に」渡された小さな花のブーケ。
確かこの花の名はスカビオサ。淡い青紫とクリーム色。まるで私のワンピースから抜けだしてきたみたい。
「今日のワンピース、すごく似合ってる。綺麗だね」
そんな一言が聞けて、嬉しくて花束をぐるぐる回しちゃった。花が散っちゃうでしょ。
「黙っててごめんね。驚かせたくて、はじめてのスタッフには大抵秘密にしてるんだ」
帰り道、二人で並んで歩きながら時雨さんが説明してくれた。
カフェから初めて一緒に帰る道。
「さよなら」「お疲れさま」を言わなくていい、唯一のスタッフ。
部屋に帰ると、時雨さんがあたたかい紅茶を入れてくれる。
残ったバースデーケーキをみんなで分けて持って帰ってきたから、お皿にのせて。
あ、そういえば時雨さんはカフェでたべてたかな。
「ああ、私、そんなに甘いものは得意じゃないんだ。一口あれば十分。でも結花ちゃん見てると手だしたくなるね。すごくおいしそうに食べるから」
そう言って、私の頬を指先でやさしくつつく。
レアチーズ生地に入った甘酸っぱいブルーベリー。フォークよりスプーンが似合う、ふわっとしたやわらかさ。
子いぬのような目をして時雨さんがこっちを見てるから、「はい、あーん」ってスプーンを差し出す。
ぱくっと咥える仕草が、なんだからしくなくて、こどもっぽくてかわいい。やっぱりだいすき。
「結花ちゃん、おいで」
ソファーに移動して、そう私を呼ぶの。
「時雨さーん。『おいで』って、いぬじゃないんですからぁ」
近寄ってむすっとしてみせたら、ほっぺを両側からつつかれて空気抜かれた。
「そっちじゃない、こっち」って、時雨さんが自分の膝を指さす。
えっと思う間に腕をひっぱられて、膝上に横向きに抱っこされちゃった。わっ、近い。
「もうさ、いいかな」
え、何がですか。顔が近づいて来る。え、どうしよ。
「もう『結花』って呼ぶよ。ちゃん、つけてると距離があって、いつまでも遠い」
なんだ、いいかなって、そういうことかぁ。何を期待してるんだ私は。
「はい。もちろんです。結花って呼んでくれたら、嬉しい」
「
重めの低音の声が右耳にくすぐったく響く。たとえるならチェロかな。そばで聞くと身体の奥に直接伝わってくるみたい。
「時雨さんの声、すき」
「そ? 私も結花の甘い声すきだよ。小鳥みたいにもっと鳴かせたくなるね」
そう言って私の前髪をかき上げるから、思わず「……ぁ」って声が出てしまう。
そんな私をニヤリと見たあと、時雨さんはおでこにちゅっと軽くキスをくれた。
やわらかくてやさしいキス。私の目にハートが入ったのはまちがいありません。
「ハッピバースデー、結花! 明日だけど、何度祝ってもいいよね」
今夜お風呂入っても、私、顔洗いませんっ!
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