第9話 雨のち晴れのち曇りの音
「結花ちゃん」
時雨さんの声と、コンコンと部屋をノックする音。
ドアを開けると、時雨さんが心配そうに立っている。
「どうしたの? 宿題大変?」
「ううん、大丈夫です」
「入っていーい?」
「あ、はい。どうぞ」
部屋に入って来た時雨さんは、ベッドにぽーんと気軽に座った。私はまだ胸がどきどきしてる。
「どした? 今日は疲れちゃったかな」
視線をどこに合わせればいいのかわからない私に、時雨さんはやさしく声をかけてくれるから、やっぱり正直に伝えよう。
「え、えっと、む、胸が気になっちゃって」
「あ? は? ああー。うわー。結花ちゃんってば!」
立ち上がって急に胸を両腕で隠す時雨さん。
え、い、今頃? この前から気付いてるのにそのまま自然体なんじゃなかったのかー。
「ちょっと待っててね」
しばらくして戻ってきた時雨さんは、グレーのタンクトップを中に着て、下もクロップド丈のパンツを履いてきた。
「家にいる時はいつも気にしてなかったから、ごめん。でさ、結花ちゃんは部屋でブラしてて窮屈じゃないの?」
「実はここにいるときは外してて、部屋出る時につけてました。今はさっき戻ってきたばかりだからオンで」
「はは、オンとオフなんだ。そっか、そうだよなぁ。まったく無頓着ですまん」
そして、椅子に座ったままの私の胸に視線が注がれる。
「レースのブラか。お花みたいでかわいいな。私はいつもシンプルというか色気も素っ気もないやつで、そういうのつけたことないな。似合わないしなー」
わぁ、じーって見ないでー。そんなに顔近づけないで。
「ね、ついでに聞くけど、サイズはCカップくらい?」
「限りなくCに近いBです」
懸命に見栄をはってしまったけど、直球の質問が恥ずかしくて私の声は消え入りそうだった。
「ふぅーん。やわらかそうだなー。自分だとあんまり男と変わらないからね。太った男の方が胸ありそうだもんな」
爽やかに笑った時雨さんは、立ち上がって部屋を出て行く。
「今度、つんつんさわらせてねー」
は、い、あ……。完全に弄ばれてる。
*
しばらくぼんやりしていたけど、初日から全然だめだ。寝た方がいいかな。
水を飲みにキッチンに行ったら、ベランダで煙草吸ってる時雨さんが目に入った。
空見上げて煙をふぅーっと吐いてる。すらっと背の高い美しい人。「私の想い人はこの人です」って指差して確認したくなる。
リビングではピアノの曲が流れていた。静かに緩やかに響く音色に 耳を澄ませていると、時雨さんが窓を開けて戻ってきた。
「テレビは置いてないんですね」
「そう。必要ならネットでニュースや映画とか観られるからね。音楽を聴いてリラックスして、また明日のことを考えてる方がすき。視覚から入りすぎると神経が休まらないから、私にはこの方がいいんだ」
「おいで」
今度は手招きされるままにソファーのところに行き、時雨さんの隣に座る。
程よい固さのソファーが、体をすっと包み込んでくれる。焦げ茶色の革にベージュ色のカバーがかかっていて肌触りがいい。
「目を閉じて、音だけに集中してごらん」
あ、オーディオの音が、ここに座って聴くのが一番いいように設定されているんだ。ふわぁっと空気でくるんだように耳に届く。
「これ、カフェでもかかかっている曲ですね」
「よくわかるね。ドビュッシーの『夢 Rêverie』だよ」
ピアノの一音一音がやさしくて甘い。
「私はこれを聴くとフラットな気分になれるんだ。天使が地上に着地して、ここが水平の基準点だよって指さしているみたいにね」
時雨さんが語る言葉をみんなとっておきたくて、私は時間を止めたくなる。
「実はね、雨の日には明るい音を、晴れの日には雨のような音を選んでいるんだ。いつも曇りくらいのニュアンスに保てるような音楽を探している。『夢』はどちらの日にも似合うんだけどね」
カフェでかかる音楽は耳を澄ましたくなる美しい音色だけど、だからといって聴き過ぎて空間を妨げるようなことのないものだ。
レース越しのような、曇りの日の淡い光がちょうどいいのかもしれない。
それでいて気になる音。
「この曲の題名は何ですか」って訊ねてくるお客様も結構いる。
そうすると、いつも時雨さんがそっと伝えに行くんだけど、その時の嬉しそうな顔ったらないの。気づくと話し込んじゃったりしてる。
すきなことを話してる時の輝いた瞳がまぶしい。
ああ、今日は緊張したから急に眠たくなってくるよぉ。ふぁー。
結局そこで寝ちゃったみたいで、いつのまにか照明が落されてブランケットがかけられていた。こどもか、私は。
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