第8話 来ちゃった


 こうして私はゴロゴロとスーツケースを転がして坂道を登っている。

 途中で手を離したら犯罪になるだろっと言い聞かせ、しまいにはスーツケースを後ろから押し上げるようにえっちらおっちら登ってたから、前から見た人はスーツケースが独りでに坂を上がってきたと思ったかもしれない。わけないか。あはは。


 ピンポーン。

「来ちゃった」


 一度言ってみたかったセリフを口にする。なんとなく彼女気分。うん、私が彼氏役では決してないもんなぁ。やっぱり時雨さんが王子様であり騎士だもの。


「とりあえず1週間置いて下さい。よろしくお願いします」

「うわっ。言ってくれたら迎えに行ったのに。大変だっただろ? スーツケースが坂道をのぼ……」


 う、きっと私の考えた通りの想像をしましたね、時雨さんっ。

 そしてひょいっと持ち上げると、さっさと奥の部屋に運んでくれた。さすが男の人、じゃなかった。けど頼りになるなぁ。


「いらっしゃい。いや、今夜からは『おかえり』だな」

 真顔でそう言ってくれると、思わず抱きつきたくなっちゃう。


 時雨さんは準備しておいてくれた鍵を、はいって、手のひらに握らせてくれた。

 暗証番号を耳元でささやかれる。ただの数字の4桁なのに、特別になる響き。

「いつでもここにいていいよ」という印。

 あわててしまって、心の中で「今はお試し期間中。まだまだ間借りの居候です」と言い訳のように唱えてみた。


「ごはんにしますか。それともお風呂になさいますか。結花姫」

「汗かいちゃったので、先にシャワー浴びてきていいですか」

「ちょうど湯船にお湯を張ってございます」

 執事っぽーい。お姫様ごっこ。いやいや、新婚さんごっこみたいで楽しい。



 ここのバスルームはユニットバスじゃなくちゃんと分かれていて、バスタブが無駄に大きいんだ。なんだろう、この豪華さ。私一人じゃ溺れちゃいそうなくらい。


「一緒に入る?」って、ふざける時雨さんの悪戯そうな瞳。

 もうっ、知らない。頬が勝手に熱くなる。

 シャワーを浴びて、時雨さんの柑橘系のシャンプーに包まれるしあわせ。ハーブの香りもするね。これだいすき。ぶくぶくぶく。


 荷物詰めてる時から部屋着に何を着るかすっごく迷ってた。

 一人の時はストーンとしたオフホワイトのコットンのワンピなの。フリルとかついてこどもっぽいけど笑われないかな。


 それと、ブラしないと微妙に透けちゃうんだけど、このままでいいかなぁ。

 うーん。部屋でいる時ブラつけてるとリラックスできないし。

 いや待て。リビングにいる時はホテルの廊下と同じで公共の場だから、つけとくべきかな。


 自分の部屋に戻ったら外す。

 部屋を出るときはオン! 部屋に帰ったらオフ! 

 面倒だけど一緒に暮らすなら、そこは気遣いが必要だよね。


 とりあえずバスルームから<オン>にしてリビング兼ダイニングに戻る。

 カウンターキッチンがあって、真ん中には大きな白いテーブルが置かれたダイニングがあって、ソファーのあるリビングまで一続きになってるの。

 この前寝かせてもらったベッドは隣にある時雨さんの部屋のもので。その奥が今度私の(仮)になったお部屋。


 タオルで髪を乾かしながら行くと、時雨さんがじっとこっち見てる。ん?

「か、かわいいー。何そのヨーロッパ系寄宿舎みたいなお洋服!」

って言いながらキッチンから駆け寄ってくる。


「うあー。しかも髪が濡れてると、こいぬみたいに更にサイズがちっちゃくなってる」

 ああ、ふさふさのトイプーを洗うと、中身こんなだけかって驚くあれかしら。もうほんとにちっちゃいものがすきなんだから!


 そうしたら次の瞬間、ふわっと抱きしめられちゃった。あ……。

 そっとね、大切なものを慈しむような、壊さないように細心の注意を払っているみたいな抱きしめ方なの。


 体がちらっとふれあって風が吹く。背中に回された腕のあたたかさが少しだけ届く。きゅんとする。

 柑橘系の匂いと、胸元から漂うメンソールの煙草のフレーバー。これが近付いた時の時雨さんの香りなんだ。


 肩に手を置かれて「座って」って言われるがままに椅子に腰掛ける。

 時雨さんは私の髪をタオルでゆっくり空気を含むように丁寧に乾かしてくれた。

 やさしくて大きな手の温もりに包まれてなんだか溶けてしまいそう。

 恋しちゃいそうです。もうしてるのだけど。



「今夜来るって思わなかったから、簡単なつまみっぽいものしかないけど」

 そう言いながら、夏野菜がいっぱい入ったサーモンのマリネをお皿に盛りつけてくれる。うう、これで簡単なんだ。十分ですー。

 てんこ盛りのディルに笑ってしまう。フレッシュチーズと白ワインで乾杯。

 時雨さんが目の前に座ってるの。夢みたい。


 いいよって言ってくれるけど、お皿の後片付けくらいさせて下さいね。時雨さんはお風呂入って来て。

「そ? では、お言葉に甘えて」


 あ、いけない、宿題しなきゃ。

 お皿洗いを終えてから自分の部屋にもどって、ライティングデスクの上のライトをつけた。

 バスルームの前を通ったら時雨さんの歌声が聞こえてきた。お風呂すきだって言ってたなぁ。


 さて、きちんと予習しないとついていけなくなる英文学の予習。本が読むことがすきな私にぴったりの授業。

 でも、今日は新しい環境のせいか全然頭に入ってこない英文訳。仕方ないよね。落ち着け結花。

 ついつい廊下の音に耳を澄ませてしまう。カチャってドアを開ける音がする。お風呂上がったのかな。


 少し時間をおいてリビングに行った私の目に入ったのは、またもやYシャツだけの時雨さんが、腰に手を当ててぷはーっと水を飲んでる姿。男の人とはちがう艶かしく長い足。


「おー。ここおいでー」

 ソファーをポンポンと叩いて隣に手招きされた。

 あ、やっぱり……。こっちの気も知らず誘惑してくる透けた胸。もぉー、私だけオンでも意味ないじゃなーい。


 くるっとUターンして部屋にもどって、どきどきする胸を抑えた。日常なら慣れるしかないのか、私。これはある意味、試練なのかなっ。





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