第44話 ワインと無花果
何もかもが一編に塞き止められ、方向が変わっていくような毎日。
今のこの地点では私には流れを止められない。いいも悪いも相手にポイントを切り替えられて、元にも戻れずに勝手に進んでいく。いつまでもそれでは嫌だった。
カフェのこと、気持ちのこと、そしてもう一つ、確かめたいことがある。
そう。キスもしてくれなくなった理由。
あの通り雨の夜に、時雨さんに何かあったことは確かだけれど、その前にしていた私との行為には原因がなかったのだろうかと。
いつだって私は時雨さんから受け取る側で、自分から仕掛けたことがない。それは経験値が違うということもあるけれど、私が彼女に求めているのが男性的な役割になっていることが一因じゃないだろうか。
それが、不平等な関係を作り出しているような気がしている。だからといって、私が時雨さんを喜ばせるようなことができるのかは疑問だけれど。
*
秋に熟し、再び未来の秋に向かって新しくなるもの。
目の前にいる人の一挙手一投足に目を奪われる。私はあなたに夢中なのだ。あなたが想像しているよりもずっと。
今日の赤ワインには、
テーブルに幾つも並べられた無花果からの高貴な香り。いや、そんなに匂いがするわけではなくて、ただのイメージだ。時雨さんが手に取れば、それは何であろうと私にとって特別になる。
「実家に鈴生りに成ってたんだよ。収穫してきてしまった。夜カフェにも似合うだろうから。どう使おうか」
これはまだ固いかな、こっちは程よいかな。さっきから時雨さんがどれを剥こうか悩んでいる。似ているけれど一つずつが違う雫のかたち。
ひとつを選ぶと、片手で先を持って皮を裂き始めた。中から焼き茄子のような果実の実が現れて、それにかぶりつく。
その口元があまりに色っぽくて、この世に置き去りにされた美なんじゃないか、なんて気がしてしまう。
「結花。これ、いい具合に熟してる。おいで」
そう声をかけてくれたから、思い切って私から近寄って、あなたにくちびるを重ねる。
時雨さんは拒否するわけでもなく、応えてくれるわけでもなく、私のなすがままにさせている。ただじっとしているから伝わってくるのは無花果の味だけで。
こっちから誘ってもだめなの? もう私にそんな感情は持てないの?
よくわからない詩の断片を思い描きながら、私は彼女を見つめている。たまらなく胸を突かれてせつない気持ちになる。二人の間に今はエロティックな空気は流れていない。
あの日私は、レースのランジェリーを外されて、胸の先を大きな手でくるくるされただけで、感じてしまった。身体中が淡雪のように溶けていくようで、その先を期待して待ってしまった。
口に含まれてその先まで、ううん、もっと先まで。
そう、私は待っているだけの相手。私では、ただのこどもの火遊び。
今もワインと無花果が醸し出す、甘い芳醇な香りのキス。でも、凍ったように味がしなくなる。
*
「昨晩の続きだね。今度は性的な意味合い。性的はおかしいのかな、同性の場合」
時雨さんは目を合わせず、窓の外を見ながら私に告げる。
「私の身体を扱う人は、結花ではないかもしれないね」
「あなたを感じさせることができるのは、もっと力強い腕なんでしょ? 境さんのように」
「こう見えて私も女なんだ。でも、結花にそれを求めても叶えられない。ただし、受け取ることだけが欲しいものではないよ」
一つ深呼吸をしたあと、時雨さんは私を見てこう続けた。
「正直に言うと、私は結花で実験してたんだ。小鳥のように震える感じ方がたまらなくて、ただ指先の魔法で気持ち良くさせたい。君にそれを求めていた」
「なんだろうね、私の性というものは。ほんとにわからなくなるよ」
時雨さんはそっと私のくちびるを撫でながら、瞳をのぞきこむ。その目の表面に私が映ってる。その奥に揺蕩うゆらめきが、哀しげに見えて仕方ない。
「私は結花を通して、君が思っている以上に快楽を得ている。今だって応えたい衝動にかられてる。本当はもっと先に。君のもっと奥に。そういう形の寄り添い方もあるのかもしれないと、勝手に自分を納得させようとしていた」
目を伏せてから、決意したように時雨さんが私の頬を両手で包み込みながら、こう告げる。
「私はもう、君に秘密を言わなくてはいけないね。私が君に近付いたのがなぜか。そして手放したくない本当の理由を。君を失いたくはないけど、もう限界かな。いつまでも隠してはおけないからね。……でも、もう少し待ってほしい」
グラスに軽く口をつけて時雨さんはワインを口に含む。そして私にくちづけて、そっと流し込む。
喉の奥を伝う赤い液体が、今までに知っているものではなく、私をゆっくりと貫くように堕ちていく。
ただそれだけで、私はあなたのものになってゆくのに。
くちびるを離してから、時雨さんはあの人の名を呼ぶ。
「この先を求めるのなら、結花に本当に必要なのは、やっぱり恭なんじゃないかな」
再び窓の外を見つめる時雨さんの横顔に釘付けになりながら、私はどんなことがあっても、この人の元を去りたくはないって、勝手に決心していたんだ。
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