第45話 ル・プチ・プランス
記念すべき「第1回夜カフェ」は、10月のとある土曜の夜に開催された。
いつもはもう灯りを落とす時刻からはじまる秘密めいた会。
常連のお客様が嬉しそうにやって来た。みんな仮面をつけて登場、まではしないよ。
お、藤木君がお誘いした文芸部出身の劇作家、こぐまタローさんが初来店。あれ、誰かに似ているような。
そしたらね、ジローさんが厨房からとことこ出てきて「よっ、兄貴」って言うからビックリ!
「ジローさんの苗字って『こぐま』って言うんですか?」
「いや、それは兄貴のペンネーム。本名は『熊本』だから」
「ええー。熊本ジローさんなんだ。まさかサブローさんもいるとか」
「シローまでいるぜ」
「ちなみに妹さんは? ハナコとか」
「するどいな! ユカリン」
めまいがするぅ。ただのジョークだよねっ。
「あ、そうそう。パティシエの香織の苗字、凄いぞ」
「え、香織さん?」
「うん。『
うわ。知らなかったよ。そうね、香織さん、美人だけど勇ましいよね。熊本、猪熊、そして私があらいぐま。カフェ森の三匹のくま。って、やんっ!
ちょこっと絵本っぽいスタッフ図を描きながらも気合いをいれる。私も給仕をお手伝いする係なんだもん。そして、この夜を楽しみたい一人だから。
*
会は気楽にお喋りしながら進めようってことで、堅苦しいあいさつとかはなしで、まずはワインで乾杯。その後で、ワンディッシュをささっと運ぶ。にぎやかな自己紹介のあと、本についてすきなことを自由に語る感じ。
第1回目の本はかの有名な、サン=テグジュペリの『星の王子さま』Le Petit Princeだ。
こどもから大人まで読める本だけど、その解釈はとても奥深い物語。
みんなすきな箇所が別々なとこが、不思議だね。
―― 心で見るんだよ。大切なことは目に見えない。
―― 本当の愛は、もはや何一つ見返りを望まないところに始まるのだ。
たくさんの考えさせられる名文。この一文のニュアンスも訳者によって変わるかもしれない。ということで、持ち寄られた訳本も様々。そして、藤木君が原書も携えているよ。
だからフランス語の教授をご招待したのね、藤木君。
―― Le sable, au lever du jour, est couleur de miel.
この何気ない文章ですら、教授が読み上げてくれる響きだけで、ワインを傾けたくなるくらい美しい。そこに集った人たちの目が輝いている。
―― 砂は、夜明けには、蜂蜜の色になる。
合ってるかしら。私もいつか原書を解き明かしてみたいな。
添えている音楽は、時雨さんが星や月に似合う曲を選定したの。最初がモーツァルトの「きらきら星変奏曲」ではじまる。
次は、フランスの作曲家、カミーユ・サン=サーンスの『動物の謝肉祭』。14曲からなる室内楽。
色々なフレーズを使って遊び心で満たされた曲たち。最も有名なのは「白鳥」だろうか。「水族館」の魔法っぽい雰囲気も魅惑的だな。音が色を添えていく。
*
ここに来る前に、時雨さんに頼まれてお花屋さんに寄ったの。
そう、星の王子さまの星の花を見つけに。孤独がキライなのにプライドが高くて結局一人ぼっちの、薔薇に似ている花。
真紅の気高そうな薔薇を一輪買おうとして、ふと目に止まったものがあって。
「あれは?」と聞いた私に、お店の人が
「あれは飾りもので、売り物ではなくて」と困った顔をする。
そうしたら、店長さんが出てきて
「『雨の庭の夜カフェ』にでしょ。時雨さんに頼まれているから大丈夫」
そう言って、そのガラス細工の薔薇を貸してくれることに。
「ここに来た子が、もしこれを見つけたらお願いって言われてるから、了解済」
壊れないようにくるんと包んでくれたその花は、まるで私と時雨さんをつなぐ絆のようで。
カフェに戻ってテーブルの近くにそれを飾った時、時雨さんがほほえんでくれた。
「結花にも、あの星の花はこのイメージなんだね」
そう。真紅までいかず、透明感のあるガラス細工の紅い花。
みんなも目にとめてくれるかなって思ってたらね、一人残らず席に着く前にその花にあいさつしてくれたの。
―― あなたが時間を使ったから、そんなに大事な花になったんだよ。
私は厨房とテーブルを行ったり来たりしながら、ふと、今話題になっていた「王子さまの時間」について考えてみる。
大切に使った時間。それから、誰かとの再会を待つ時間。
待ち合わせの時刻を基点に、その前の時間はもうすぐ会える嬉しさで頂点に向かっていくクレッシェンド。
その点を越えた瞬間から、まだやって来ない相手を心配してしまうデクレッシェンド。
時計を持たない人や、時の概念を持たない人と待ち合わせたなら、ほんとに気が気じゃないだろうなぁ。
繊細な王子さまに、時が重なってそのせつなさに想いを馳せてしまう。
いつだってさみしい人だから。あんな人は待たせないようにしなくちゃ。
私の大切な人が重なる。星の王子さまは時雨さんに似ている。私が近くにいても、あなたのさみしさは埋められない。まだまだ何もかも不足している。それでもあきらめたくはない。
無花果の香りがする。昨晩のことを連想するあの果実。
時雨さんがデザートに作ったのは、無花果とマロングラッセのプチパフェ。絶妙な秋のクリームのハーモニー。
そこに並んだのは、香織さんが作った「きつねのほこらシャーベット」。
淡い草色をした小高いミントの丘をスプーンで掬えば、中から柚子とバニラの層が見え隠れする。おお、という驚きの声が上がる。
こうしてスタッフの遊び心が散りばめられた夜カフェは、しあわせな時間を共有して幕を閉じた。
去り際にもう次回の話になってるね。え、テーマは「自由恋愛」? くすくす。
選んだ作家は、ポーヴォワールにコクトー。めっちゃ巴里ですねー。
*
「やっぱり、日本語は、言葉は魔法だね」
手を振ってお客さまを見送りながら、藤木君がささやいた。
「僕ね、日本語の美しさがすきで、寧ろ外国語よりそちらに魅せられているんだ。イギリスから日本に帰って来たのも、もっと知りたくなったから」
そうだったのね。そして、言語を訳すより更に先の表現をしたいのかな、藤木君の目標は。私も今夜、もっと言葉にふれたいって想ったよ。
時雨さんが一人、中庭に佇んで星空を見上げている。遊園地の灯りが消えたこの時間、東京でも星が見える秋の空。
そっと掬った空気をまるく固めたカプセルを持つように、時雨さんが両手を空に捧げる。
星々はあなたにほほえんでくれましたか。私もあなたも、きっとこの夜を忘れない。
振り向いた時雨さんが、いつもの笑顔に戻って、スタッフ一人一人に感謝を伝えてる。
「ありがとう。みんながいてくれたから、一つの小さな夜が輝いたよ。今夜のことが心の片隅に置かれることがあったなら、私はカフェをやってみてよかったって思える。自分だけではできなかったことだ」
おつかれさま。乾杯! 最後まで残ったスタッフで祝杯を上げる。新しい試みにみんなわくわくしていたものね。カフェ『雨の庭』と時雨さんがだいすきな人たちが集まって、ここにいる。みんなの笑顔に胸がきゅんとなる。
私はもう第2段階に進んでいる。もっとあなたにふさわしい女の子になりたい。
そして、自分をすきになれるように生きていきたいよ。
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