第20話 水曜日にはコンフィチュール
その夜は眠れなくなって、そぉーっと起き出してソファーのところに行ったの。
さっきまでここで時雨さんと一緒にいた。その温もりを思い出しながら、ブランケットに包まれる。そうしたら……。
「眠れないの?」
廊下から声が聴こえて、どきっとする。静かな足音が近づいてきて、私を後ろからくるむように腕を回してくる人。
そして、隣に座って分けてくれた片耳イヤフォン。繋がる私の右耳と時雨さんの左耳。
流れてくるビル・エヴァンスのピアノに耳を澄ます。だいすきな『Waltz fot Debby』だ。優しくて可憐な、すみれみたいな曲。少女が踊るはじめてのワルツにふさわしい。
時雨さんは眠れるまで髪を撫でてくれた。私はあたたかい腕にそっと両手を絡ませてみる。今夜の余韻に浸りながら、とめどなく包まれるしあわせなきもち。
ずっと目を覚まさず、このままでいたいなんて思いながら、うつらうつら揺蕩う。
*
カフェの定休日には、時雨さんは出かけることもあるけど、基本的には家にいる。
ゆっくり朝寝坊した後、ひらめいた何かを作ったり、すきな音楽を探したりするような時間の使い方がすきなんだって。
1週間撮りためた写真を整理して、カフェのニュースペーパーやサイトにはめ込んだりするのも休みの日。昨晩もやっていたけど、私が邪魔しちゃったからね。
今朝はご機嫌に歌いながら、何かコトコト煮ているよ。甘酸っぱい香りがキッチンを充たす。
「時雨さん、何作ってるの?」
「甘夏のコンポート。あ、結花、目つむって。こっちは当ててごらん」
大人しく目を瞑った私に、はいって一匙のスプーン。あ、これはきっと……
「ラズベリー!」
「正解者にはご褒美です」
手繰り寄せられて、ちゅってされる。以前は頬だったけど、昨夜からは当たり前のようにくちびる解禁。
「結花のくちびる、ラズベリーレッドだ。おいしそう」
何度も何度も吸われて、魂ごと奪われる。コンポートが崩れすぎてコンフィチュール、アバンチュール。
つき合いはじめたばかりの恋人同士のように、どうにもできない。
誰かが見たら、確実に両手で目を覆うレベル。突然に甘くなる、二人きりの時間。
*
今日はこのままいようかなぁ。迷いながら支度をしてみるけど、……ぁ、だーめ。チカラ抜けちゃって、もう学校行けなーい。
だってね、更に釣り糸たらして、誘惑してくるんだよ。
「結花のだいすきなオムライス、作っちゃおーかな」ですって。
ああ、それ、反則!
時雨さんのオムライスは、ケチャップライスが苦手な私のために、トマトの角切りから作ったソースを混ぜてくれたものなの。
それから、とろとろのオムレツをどーんとのせて、スゥーっと真ん中にナイフを入れてくるむタイプ。まるでふかふかざぶとん。たまごのイエローがおひさまの代わり。
トマトソースでハートを書いてできあがり。私をメロメロにさせてしまう一品。
私を手離さない時雨さんの強い瞳と腕。ね、ずっと掴まえていてほしい。
「それは、なあに? フルーツのカクテル?」
ぽんぽんってまるくくりぬかれたフルーツたちがね、金魚鉢みたいなガラスの器に浮いてるの。楽しそうに手をつないで踊ってるみたい。
「サングリアだよ。今日は昼から酔わせるつもり」
もう抵抗できずに、私まで急きょ休日モード。くちびる尖らせてキスをせがむ。
時雨さんは、グラスに残ったフルーツを長い指で掬って、私にあーんってさせる。
素直にキスしてくれないだなんて、もう、意地悪だな。代わりに指を口に含んだまま、離してあげない。
「こら、結花。いたずらっこめ」
すっと逃げられてソファーの上。だから、追い詰めてみる。
髪をかきあげられて耳にキスをされると、全身に電流が走っていく。
唐突に理科の実験の豆電球を思い出す。ノートに書くスイッチオンの記号が入って、ちかちかするの。
そんなにやさしく撫でないで。どうにかなってしまいそうだから。
上くちびるだけを、時雨さんのくちびるで挟まれて、あひるになっちゃうよー。ぺろっとしたら、驚いた顔して逃げていく。
二人で鬼を交代しながら追いかけっこ。つかまったり逃げたりを、ふざけて繰り返してる。もっと、もっと、って。
気がつけば、もう夕暮れ。観覧車が呆れ顔で、私たちを見ているよ。
*
今日のコンフィチュールは、糖度甘めになっております。ご注意を。
*
(おーい。糖度は、高めじゃないの?)あは。
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