第35話 理想のカフェ


 花の写真を撮った日の夕方、時雨さんはこんなことを語ってくれた。

 窓辺から吹く心地よい風に吹かれながら、あなたの想いを受け取る。親しくなった者たちだけが交わす時間。

 

 空を見上げながら、大切になった今日を思い出して、両手の上に一日の映像を映し出したい。そんな風に、浸っていたい時がある。今がその時なんだ。


 時雨さんはやさしい目で私を見つめてから、もう一度夕暮れの空に目をやった。


 そんな一日の終わりに「寄ってみようか」って、思い出してもらえるカフェが理想だ。

 ローソクの灯りが、白ワインを入れたグラスに映ってゆらゆらしている。


 撮った写真を眺めたり、出会った花について言葉を交わしながら、時雨さんの想いに耳を傾ける。


 嬉しい時だけじゃなく、心が傷ついてどうしようもなくなって辿り着いてくれたらいい。

 楽しい時も悲しい時も、ここにって思ってもらえる拠り所。

 話を少し聞くこともできる。放っておいてほしければ、ただ見守ってる。


 私はいちばん悩んでいる時にとあるカフェに出会ってね、その存在にすごく慰められたんだ。

 しばらくそこで修行させてもらったんだよ、迎えが来るまで。

 その時に私も誰かの居場所になれたらいいなって思ったのが、今こうして店長を引き受けるきっかけになった。


 時雨さん。私もそうだった。途方に暮れた時には『雨の庭』に来たくなった。

 それは空間の居心地の良さもだけれど、やっぱり時雨さんに逢いたかったからだ。

 わかってもらえそうな気がしたからなのかもしれないね、あの日も、あの時も。


* 


 ほんとは余裕ができたら、朝カフェをやりたいんだ。うちの珈琲を朝いちばんで飲みたいってお客さんも多いし、週末ならゆったりブランチを提供できたらって思ってはいる。全粒粉のパンケーキとか野菜スープなんか、きっと喜んでもらえるね。

 新しい一日のはじまりをここからスタートしてもらえるように。おはようって言葉が飛び交うのもいいな。


 夜カフェもそう。灯りを一段落として、ワイン片手にゆっくり時を過ごしてもらったり、物思いに耽ってもらったりする空間としての『雨の庭』。

 何かあった日だけじゃない。今日は何もなかったなって、ぽっかり穴が空いたような空虚な日だって、ここは変わらず存在していたい。お客さんとの会話も大切にしていきたい。


 朝の顔も、夜の顔も持ってる。そんなカフェでいられたらいいね。急ぐ必要はないんだけど。まずは昼の時間をきちんとできてから、一歩ずつ。


 私はいつになく饒舌な時雨さんの肩にそっと自分の頬をよせて、甘えたままうとうとして幸せを満喫していた。

 夢見心地の時雨さん。ほんとすきなんだなぁ。たった週1の休みの日も結局カフェのことばかり考えてるのね。


 私はまだきちんと働いたことがないし、周りでそんな働く姿をずっと見てきた人もいない。

 父は会社員だから、会社で具体的にどんな仕事をしているか見えない。

 母は専業主婦で、家事は際限なく気遣いが必要な、大切なことだと感謝している。


 でも、バイトをするまで、世間で働く人の現場をリアルで見る機会がなかった。

 すきなことを仕事にして、そのために心底打ち込んだり、工夫している人を間近で見るのは時雨さんがはじめてなんだ。私はそこに強く惹きつけられている。


 働くってことはいいことばかりではない。時には思いもよらない事が起きたり、心無い言葉を浴びせられることもある。

 ここ何か月か一緒に働いてみて、彼女が頭を下げないといけない場に居合わせたこともある。でも、時雨さんはそんな時もそっと微笑んでる。自分が責任者だという自覚がきちんとある。

 理不尽なことを言われた時は、自分に納得がいかなければ決して謝ったりはしないけど、かわすのが絶妙に上手い。大人だなぁ。きっと自分のしていることに自信があるからなんだよね。


 人生は甘いだけじゃなく、結構ビター。

 オレンジを齧りながらそんなことを考える。私もいつか夢中になれる仕事を見つけたい。

「今でも結構大変なのに、体壊しちゃいますよ」

 なんて言いながら、心の中では(私と二人きりで過ごす時間が減っちゃいます)って言ってたかもしれない甘ちゃんの私。

 でも、がんばってる時雨さんの夢を応援したいなぁという気持ちもむくむくしてきた。



 次の日の午後、そんな話をちらっと藤木君にしたら

「たとえば、月1回の『特別な夜カフェ』を試験的にスタートするのはどうですか。予約制で。そうだなぁ、10名くらいの定員。軽くワンプレートでつまみながら、ある1冊の本について語り合う場とか。なんて、僕の希望ですけどね。もちろんナビゲートは店長さんで」


 時雨さんはそれを聞いて、目をパチクリさせた。

「あ、すごくいいな、それ。うわっ、やりたくなってきてしまった。自分も参加するとなると、サーヴは誰かに頼むかな」

 嬉しそうに藤木君の両手を掴んでぶんぶん振って喜んでる。


「僕、昔の巴里のカフェみたいに、文豪や芸術家たちが意見を交わす社交場みたいな喧騒に憧れているんです。フランス映画みたいな」

「すきなことを語り尽くす場か。それもいいな。毎回テーマ決めたり、お客さんのリクエストに応えるのも有りだな!」

 色々想像して、うきうきとスキップしているよ。くすくす。


「ね、藤木君。その企画、君も手伝ってくれないかな? スタッフの一員として、バイトがてら参加しない?」

「ほんとですか? やってみたいです!」

 おお、即答だ!

「あと店長って呼ぶのなしね。どうも苦手で。時雨でいいから」

「じゃ、『時雨さん』で。僕のことは、藤木でも祐でもいいですから」

 あら。すっかり意気投合しちゃってる。

「もう、君はここの一員みたいなもんだからね」


 ふわふわ笑っていた藤木君だったけど、時雨さんがいなくなってから、急に真顔になって私にこう告げた。

「橘さん。明日なんだけど、一緒に図書館に行かない? 話しておかないといけないことがあるんだ」





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