第42話 君に恋はしていない


 夜カフェの準備は、着々と進んでるみたい。


 1週間前、時雨さんが作ったポスターを掲示して、ちらっとチラシをレジ横に置いて初宣伝がはじまった。星空の下で本を読む人、ワインを飲む人のシルエットが映っている写真がベースのデザイン。わくわくするね。

 そして、カフェのサイトにも告知して予約ボタンを設定したら、あっという間に定員の10名でいっぱいになっちゃった。お客さまの期待が伝わってくる。


 木曜の夜。時雨さんは藤木君とテーブルをセッティングしながら話し込んでいる。

明後日の夜には、第1回『雨の庭の夜カフェ』が開催されて、ここにキャンドルが点るの。

 企画がスタートしてから、時雨さんは藤木君といることが多くて、今夜もこのあとBarで打ち合わせをするって、二人で消えてしまった。


「祐、行くよ」って、もう名前で呼んでる。

 私は誘ってくれないのかな。うう、ジェラシー。とぼとぼと坂を上って家路に着く。

 さて、遅れてた宿題のレポートでも書きましょう。今は、目の前のやらなきゃいけないことをクリアしていくしかない。



「おかえりなさい、時雨さん」

「ただいま、結花」

 こうして一緒に暮らすようになって、何度も繰り返されてきた言葉。

 二人で帰って来た時は、部屋に向かって「ただいま!」

 互いに向かって、「おかえり」「おかえりなさい」って、ほほえみ合った。


 私たちは変わっただろうか。同棲というよりは居候がぴったりの小さな私にとって、あなたは大きすぎて、ただ頼り過ぎて、恋焦がれてしまって、今も片想いに変わりない。

 どうしてあなたが私と暮らす選択をしたのかも、私にはわかっていない。見るに見かねてなのか、少しでも私に何か感じたのか、何もかも。


 ことり、とテーブルの上に、入れたてのロイヤルミルクティを置く。

 気づいてほしい。はちみつを入れた意味に。シナモンスティックの香りが広がって空中に淡く溶けていく。

「私にとって、あなたは必要。でも、あなたにとって、私は本当に必要なのかな」


 ふと漏れた疑問に、あなたが聞き返す。

「その質問は、精神的なこと? それとも?」

「両方です。二つ同時でなければすきになりません。もちろん今は片方がなくなったとしても変わらずに。きらいにもなれません」

「そうだね。切り離せるようで切り離せない。でも、敢えて今、気持ちの方を伝えるとしたら……」


「私は、結花、君に恋はしていない」

 そう、時雨さんはきっぱりと言った。


 恋はしていない。私にときめいてはいない。

 心の中で反芻する。繰り返し、その言葉が私の奥に届くまで、何度も。

 異性じゃないからという意味かもしれないけど、そんな言い訳は関係ない。


 いきなりの吹雪で心が冷たさに覆われていく。

 覚悟のない私は、あなたに見放されてしまって、まるで大事な風船の糸を離してしまったこどものようだ。

 ここは部屋の中だけど、夜の空に向かって小さくため息をついてみる。見えなくなっていく風船の影を追う。なんだろう、この絶望感は。心に大きな空洞が広がっていく。

 わかっていたよ。私では全然たりないだろうなってこと。でも。


「私、誰にも菜月さんを渡したくない」

 あえて、時雨さんではなく「菜月さん」と呼ぶ。はじめて名前を呼ぶのはこんな時じゃないはずだったのに。届かなくても伝えたくて。


「結花、それは誰にもできないよ。私は私であって誰のものでもない。君のことは大切だけど、それは無理だ」

「私のこと、大切だとは思ってくれているんですか」

「大切だよ。恋ではないけど、愛と言ってもいいくらいに」

 

 私は混乱している。恋と愛では、愛の方が行き先が深い気がしていたから。

 でも、時雨さんは恋を否定して、愛と名付けている。


「最初はただ可愛いって思って、そばに置いておきたかっただけ。だんだん愛しくなってきて、手に入れたくなった。それは心でもあり、身体でもある」

「時雨さんは、恋じゃなくてもキスできる人なんですね」

「そうだね。私はそういう人間だ」

 ふっと優しく笑う目の前の人が、遠くなっていく。

「結花は、ほんとに女だな。私のことすき?って確かめないといられない。自分を見てくれてないと生きていけないの。まるで普通の女の子だね」


 あなたは私に失望していく。私の行くべき道は何処にあるのだろう。


「私は誰のものでもない。誰のものにもならない」

 時雨さんは今、私を遠ざけようとしている。まるで決意するかのように。


「私はいつだって『来る者拒まず、去る者追わず』だった」

「そこに時雨さんの気持ちはないの? いつでも受けて眺めているだけ?」

「あのね。結花の周りで地球は回ってるわけではないよ。全て自分の理屈で考えちゃだめだ。私を変えることができるなんて思ってほしくない。そんな簡単じゃないんだ。私には今まで生きてきて、頑として受け入れられないことがたくさんあって、そう易々とはうなずけない」


 そう言われて、はっとした。

 私、わがまま言ってただけなのかな。みんな自由。みんな自分の世界を持ってるのに。


「一つ言えることは、恋じゃなくても、私にとって結花は、かけがえのない人になってる。だけど、必要だとは言わない。それは誰にもね、思わないようにしているんだ。そうじゃないと自分が保てない」

 とてもさみしいような気分になる。でも、知っていたような気もする。


「いつのまにか、どうしようもなく、愛してる。ただ、それだけ」


 私はその言葉をどう受け取っていいのかわからないまま、途方に暮れた。





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