第42話 君に恋はしていない
夜カフェの準備は、着々と進んでるみたい。
1週間前、時雨さんが作ったポスターを掲示して、ちらっとチラシをレジ横に置いて初宣伝がはじまった。星空の下で本を読む人、ワインを飲む人のシルエットが映っている写真がベースのデザイン。わくわくするね。
そして、カフェのサイトにも告知して予約ボタンを設定したら、あっという間に定員の10名でいっぱいになっちゃった。お客さまの期待が伝わってくる。
木曜の夜。時雨さんは藤木君とテーブルをセッティングしながら話し込んでいる。
明後日の夜には、第1回『雨の庭の夜カフェ』が開催されて、ここにキャンドルが点るの。
企画がスタートしてから、時雨さんは藤木君といることが多くて、今夜もこのあとBarで打ち合わせをするって、二人で消えてしまった。
「祐、行くよ」って、もう名前で呼んでる。
私は誘ってくれないのかな。うう、ジェラシー。とぼとぼと坂を上って家路に着く。
さて、遅れてた宿題のレポートでも書きましょう。今は、目の前のやらなきゃいけないことをクリアしていくしかない。
*
「おかえりなさい、時雨さん」
「ただいま、結花」
こうして一緒に暮らすようになって、何度も繰り返されてきた言葉。
二人で帰って来た時は、部屋に向かって「ただいま!」
互いに向かって、「おかえり」「おかえりなさい」って、ほほえみ合った。
私たちは変わっただろうか。同棲というよりは居候がぴったりの小さな私にとって、あなたは大きすぎて、ただ頼り過ぎて、恋焦がれてしまって、今も片想いに変わりない。
どうしてあなたが私と暮らす選択をしたのかも、私にはわかっていない。見るに見かねてなのか、少しでも私に何か感じたのか、何もかも。
ことり、とテーブルの上に、入れたてのロイヤルミルクティを置く。
気づいてほしい。はちみつを入れた意味に。シナモンスティックの香りが広がって空中に淡く溶けていく。
「私にとって、あなたは必要。でも、あなたにとって、私は本当に必要なのかな」
ふと漏れた疑問に、あなたが聞き返す。
「その質問は、精神的なこと? それとも?」
「両方です。二つ同時でなければすきになりません。もちろん今は片方がなくなったとしても変わらずに。きらいにもなれません」
「そうだね。切り離せるようで切り離せない。でも、敢えて今、気持ちの方を伝えるとしたら……」
「私は、結花、君に恋はしていない」
そう、時雨さんはきっぱりと言った。
恋はしていない。私にときめいてはいない。
心の中で反芻する。繰り返し、その言葉が私の奥に届くまで、何度も。
異性じゃないからという意味かもしれないけど、そんな言い訳は関係ない。
いきなりの吹雪で心が冷たさに覆われていく。
覚悟のない私は、あなたに見放されてしまって、まるで大事な風船の糸を離してしまったこどものようだ。
ここは部屋の中だけど、夜の空に向かって小さくため息をついてみる。見えなくなっていく風船の影を追う。なんだろう、この絶望感は。心に大きな空洞が広がっていく。
わかっていたよ。私では全然たりないだろうなってこと。でも。
「私、誰にも菜月さんを渡したくない」
あえて、時雨さんではなく「菜月さん」と呼ぶ。はじめて名前を呼ぶのはこんな時じゃないはずだったのに。届かなくても伝えたくて。
「結花、それは誰にもできないよ。私は私であって誰のものでもない。君のことは大切だけど、それは無理だ」
「私のこと、大切だとは思ってくれているんですか」
「大切だよ。恋ではないけど、愛と言ってもいいくらいに」
私は混乱している。恋と愛では、愛の方が行き先が深い気がしていたから。
でも、時雨さんは恋を否定して、愛と名付けている。
「最初はただ可愛いって思って、そばに置いておきたかっただけ。だんだん愛しくなってきて、手に入れたくなった。それは心でもあり、身体でもある」
「時雨さんは、恋じゃなくてもキスできる人なんですね」
「そうだね。私はそういう人間だ」
ふっと優しく笑う目の前の人が、遠くなっていく。
「結花は、ほんとに女だな。私のことすき?って確かめないといられない。自分を見てくれてないと生きていけないの。まるで普通の女の子だね」
あなたは私に失望していく。私の行くべき道は何処にあるのだろう。
「私は誰のものでもない。誰のものにもならない」
時雨さんは今、私を遠ざけようとしている。まるで決意するかのように。
「私はいつだって『来る者拒まず、去る者追わず』だった」
「そこに時雨さんの気持ちはないの? いつでも受けて眺めているだけ?」
「あのね。結花の周りで地球は回ってるわけではないよ。全て自分の理屈で考えちゃだめだ。私を変えることができるなんて思ってほしくない。そんな簡単じゃないんだ。私には今まで生きてきて、頑として受け入れられないことがたくさんあって、そう易々とはうなずけない」
そう言われて、はっとした。
私、わがまま言ってただけなのかな。みんな自由。みんな自分の世界を持ってるのに。
「一つ言えることは、恋じゃなくても、私にとって結花は、かけがえのない人になってる。だけど、必要だとは言わない。それは誰にもね、思わないようにしているんだ。そうじゃないと自分が保てない」
とてもさみしいような気分になる。でも、知っていたような気もする。
「いつのまにか、どうしようもなく、愛してる。ただ、それだけ」
私はその言葉をどう受け取っていいのかわからないまま、途方に暮れた。
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