第38話 小夜子ラプソディ
その後すぐ、恭さんは〆切があるからって、一人で帰って行ってしまった。
そして2次会は、結局『Rain's Coat』になだれこみ。
マスター、お店閉めてきたのにいいのかな、結局開けることになっちゃって。あ、嬉しそうだから、きっといいのね。
もちろん、マスターは小夜子さんのこともよーく知っているみたい。全てを見通せているのは、実はこの人だけなのかもしれない。物語の語り手みたいに。
*
マスターが小夜子さんの前に、すっと赤いカクテル「フランボワーズソーダ」を置く。
このカクテルは「誘惑」を示すのだソーダ。赤く華やかな彼女そのもの。
彼女が境さんとのことを話してくれた。
イタリアで境に出逢って、すぐに恋に堕ちたの。
「俺にあなたが見せたいと思うイタリアを案内して下さい。お任せします」だなんて言うから、もう毎日あちこち連れ回したわ。
1週間後には教会で結婚式を挙げて、夢のような日々を送ってた。
半年くらい経ってたかしら。久しぶりに日本に帰ったの。
そして、最初に紹介された境の友人が、恭一だった。思わず「わぁ、菜月!」って叫んでしまったわ。
さっきのビートルズ、あれね、日本で結婚披露パーティやった時に、二人が歌ってくれたのよ。境がドラム叩いてね。
あっという間に恭一に心を奪われてしまった。考えた挙句、「離婚したい」って言ったら、境ったら大声で笑い出すのよ。
「俺たちは似た者同志だね」ですって。
「心でいくら想っていても構わないよ、俺もずっと菜月しか見てこなかったから」って。
でも、私にはできなかった。けじめをつけないと相手に向かえないじゃない? たとえ私の想いが届かなかったとしても、そんなことは関係ない。
境が菜月への想いを抱えたまま私と結婚したことは、別に責めることじゃなかった。私は十分しあわせだったから。境との結婚は私にとって最高の出来事だったわ。今でもね。
境はもう菜月のことは誰かに託している。そして一生見守っていこうと決意していると思う。私はね、まだまだそこまで達観できずに足掻いているところ。悔しいけど完全な片想い。いつまでも報われないの。
なのに、恭一はすごく優しいのよ。まるで私の恋人みたいに振舞ってくれる。せめて一緒に仕事したくてイタリアに誘っているけど、なかなか承諾してくれないわ。
私はいつまでこのさみしさに耐えられるかしら。
自分の熱情を相手に押し付けてこちらを向かせて、それがあたり前だった私に、はじめて孤独を突き付けてきた人。
小夜子さんの言葉を聞きながら、時雨さんは何も言わない。
ただグラスの氷をカラカラ鳴らして、Barの照明を見つめている。
*
私の中に小夜子さんの強烈な印象が残された。その時々の自分に忠実で素直な人。今を生きている。それは多分、後の自分にはね返って、相当な負のものも同時に引き受けることになる。それでも。
時雨さんが席を外した時に、彼女は私にこう言った。
「あの双子に出逢ってしまったら、もう囚われたも同然よ。境はその運命を受け入れて上手に付き合おうとできる人。あなたもそのうちに本当のことに気付くでしょうね。その時、どうするかしら」
本当のこと?
「どっちと先に出逢うかで運命は決まるかもしれないわね。結花はどっちと最初に逢ったの? いずれにしても無傷では終われないわよ。覚悟しておいた方がいいわ」
きっと私は時雨さんに最初に出逢っている。でも、すきになったきっかけは多分、恭さんだ。
でも、私の大切な人は時雨さんで、そして時々現れて私の心をさらっていくのは恭さんで。
ぐるぐる巡り巡って、もう何だかわからない。
*
「ねぇ、二人とも手相見せて」
小夜子さんが、時雨さんと私の手をとって、見比べる。
「上から感情線、知能線、生命線。それを貫く運命線」
一本ずつ指でなぞられるとゾクゾクする。
「私にこれされるだけで堕ちる男もいるのにね」
ひゃうぁー。わかるかも。その瞳もセットですね。
「ああ、菜月にも強力なモテ線があるわね。この中指と薬指を結ぶ、金星環って呼ばれる線。性的魅力にあふれていて、気持ちを交し合うような恋愛をする人。この相はめずらしいのよ。なのに恭一にもある。手相まで一緒とか徹底した双子ね」
恭さんは小夜子さんに手相を見てもらいながら、どんな気持ちになったのだろう。
「見て。私のはどの線も直線的で短いの。熱しやすく冷めやすいらしいのね。恋愛が長く続かないんですって。合ってるから嫌になっちゃうわ」
「いやだ。結花も小者ながら、たくさんモテ線があるわね。侮れないわ」
コモノながらが、余計です……。
「それに、線があちこち二重に重なり合っているわね。この手相の人は同時に二人に恋をする傾向があるの」
どきっ。手相って色々わかっちゃうんですね。コワイ。
*
「しかし、これほど
時雨さんが苦笑いって感じの顔して(こういう時の表情、恭さんっぽい)小夜子さんをからかってる。
「あら、失礼ね。これでも傷つきやすくて繊細なのよ」
「『
「まったく。同じ顔に言われたら、ほめ言葉としてしか受け取れないわね」
セレナーデだったら、シューベルトより、チャイコフスキーくらい持ってこないと釣り合いが取れないね、小夜子さん。
彼女にはオペラのアリアが似合う。カルメンの炎のような人。
いや、『椿姫』がぴったりかな。あの原題は確か「道を踏み外した女」みたいな意味だった気がするよ。
情熱が服を着てるみたいな人。そして、軽やかにその服を脱ぎ捨てそうな、見てるだけでエロティックな花。
艶やかな花であり、花から花へ舞う大柄な蝶のような女の人。
恭さんはいつかこの人の手に堕ちてしまうのではないだろうか。
そう思ったら無性にせつなくなった。私に敵うはずもない。
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