第15話-2

 まさかここまで派手に宣伝しておいて出さないつもりか。源治が訝しんだ直後だった。


「それではいよいよ、登場していただきましょう。僕がせーのって言ったら、皆さん大きな声でビビちゃーんと呼んでくださいね。いきますよー、せーのっ!」


 ビビちゃーん、と疎らに叫んだ観衆を海原が真顔で見渡す。


「そんなんじゃビビちゃん寝ちゃいますよ。もう一回いきますよ、せーのっ」


 最初に比べて3倍以上に声量は上がったが、海原は首をかしげるばかりだ。


「頑張ってたのはチビとオッサンだけですね。女性陣も頑張っていきましょう、せーのっ!」


 爆笑に包まれる客席が今度こそ一丸となって大声を張り上げる。茶番だが、ショーには必要なのだろう。源治はどこからビビが登場するのかと水中に目を光らせたが、どういうわけか何も現れない。


 不審に思って海原を見ると、目が合った。外向き用に愉快なお兄さんの顔を貼り付けてあるが、その奥の目は底無しに意地悪く、邪悪極まりない光を宿して源治を射抜く。


「あそこの特等席に座ってる素敵なオジサマだけ、まだ声出してなかったなぁー。全員の声が合わさらないとビビちゃん一生出てこないですよー」


 あの、腹黒野郎!


 ぐるん、と客席全員の目が一斉に源治を振り返った。お前のせいでショーが進まない、と恨みがましげな500の視線に刺され、さしもの源治も針のむしろに座らされた気分になる。


「今度こそ最後にしましょう! 皆さんあのオジサマがちゃんと声出してるか見張っててくださいね! あれ実はウチのオーナーなんですけどきっと見本になるような声出してくれると思いますから!」


 謀られた。屈辱で鉄面皮が剥がれ落ちる。解雇処分にでもしてやりたいが、職員とオーナーとの仲睦まじいやり取りだと言い張られればそれまで。逆にこちらの器の小ささを示されるようなものだ。


 あの日の会議ではやけに大人しかったのに、油断していた。頭ではずっと源治に恥をかかせるやり方を考えていたのだ。胸ぐら掴むよりよっぽどタチの悪い男である。


「それじゃ行きますよー! せーーーーーのっ!」


 500の視線が集中する中、源治に逃げ場などなかった。血が滲むほどの葛藤を経て源治は蚊の鳴くような声で叫んだ。


「ビ……ビビちゃーん……」


 殺してくれという静寂をたっぷり数秒取ってから、海原は真顔で頷いた。


「うん、まぁいいでしょう。ビビちゃんカモーン」


 隣でぷふっ、と吹き出した付き人は減給処分にすると決めた。


 --地鳴りのような大歓声が、源治をハッと我に帰らせた。


 広大な楕円形プールの左端。このショープールとトレーニングプールとを繋ぐ水中トンネルの出口がある場所だ。そこから2つのシルエットが、並んで姿を現していた。


 1つはイルカ。そしてもう1つは、線の細い人間のもの。


「……正気の沙汰じゃない」


 呆れて言葉も掠れる。まさか本気で、人間がイルカの盲導犬を担うつもりなのか。源治は驚嘆混じりに憐れんだ。


 愚かなことを。今からでもやめさせろ。人間は1分息を止めるのも精一杯な動物だ。イルカを先導するなんて、それが不可能なことぐらい容易に想像つくだろう。


 水面から顔を出す、イルカとトレーナー。あれがビビか。そしてあれが--潮蒼衣。彼は観衆に手を振るのもそこそこに、空一点を見つめて規則的に呼吸を繰り返している。


 力を、限界まで蓄えるように。


「彼女がビビちゃんです。先日、原因不明の奇病で彼女はメロン器官という重要な組織を傷め、水中の障害物を把握することが全くできなくなりました。イルカの水中での視力は非常に悪く、また、設計上正面を見るようにはできていません。ビビはもう泳げない。……そう獣医に言われました」


 無垢な顔を水面に出すビビに対して、客席からなにか悼むような眼差しが注がれる。


 その時、突然ビビが大きく飛び跳ね、半身以上を水面から出しながらヒレをパタパタさせて観衆に手を振ってみせた。テイルウォーク。その活発で愛らしい姿に、きゃあ、と若い女性たちから黄色い歓声が上がる。


 直前に潮が何かサインを出していたのを、源治は見逃さなかった。なるほど顔を水から出している時なら、ハンドサインで十分指示が出せるだろう。


「この通り、ビビは元気です。しかし最初は、水に入れただけで暴れ出し手がつけられない有様。そんな彼女を救うために名乗りを上げたのが、このお兄さんでした」


 海原は粛々と語る。その内、何かいろんなことを一気に思い出してしまったように、穏やかだった表情をくしゃっと歪めた。よく通る声が僅かに震え、潤んでいく。


「……彼は、『俺がビビの目になります』と言いました。自分が盲導犬の役を引き受けて、ビビが再び、こうして皆さんの前で泳げるように……命を賭けると」


 源治は感心していた。潮にではない。海原の語りの巧さにだ。潮があの日示した「美談の付加価値」を海原は最大限生かし、ショーの起爆剤として用意した。


 それ故に、最悪だ。


 ここまで盛り上げられていざ醜態を晒す姿など、潮のことは気に入らない源治でも想像したくない。


 せめて海原の手腕によって、どんな不甲斐ない演技になっても後味の良い終わり方にしてやって欲しいと思った。海鳴水族館のためにも、潮のためにも。


「……それでは……ビビがここに蘇る瞬間を、ご刮目の上ご覧ください」


 最後は感極まったように声を詰まらせて、海原はマイクを切った。BGMがミニマムに絞られる。水を打ったように静まり返る場内。空を裂くように振られていた旗が、ピタリと制止する。


 耳が痛くなるほどの静寂の中で--すぅーーーーーーー……っ、と、微かに風の音がする。


 目を閉じ、天を仰いだ潮が、空気をゆっくりと吸い込んでいる。10秒……20秒……とても長い時間をかけて。会場中の酸素を肺に取り込まんばかりに。


 息を吸う、ただそれだけの光景に、源治の目を釘付けにするほどの魔力があった。


 やがて、口を閉じ、ビビと一度目を合わせた潮。そして源治や観客の方が焦るほど景気良く、2人は同時に水中へ顔を没した。


 海原も断っていたように、水に入ればビビの目はほとんど機能しない。すぐ隣にいる潮の姿さえ瞬く間に見失ってしまうだろう。そんな中、どうやって--



 なんの躊躇いもなく、潮がプールの壁を蹴飛ばした。



 それは源治も、500名の観客も、当然ビビさえも置き去りにするロケットスタート。あっという間もなく潮はビビの微かな視界の外に抜け出し、尚も人間とは思えない猛スピードで水中を翔ける。


 バカな、血迷ったのか。失望で顔が熱を帯びた矢先、とんでもないことが起きた。


 ビビが、前進を始めたのだ。


 それも恐る恐るではない。人のように壁を蹴っての急加速はできないまでも、尾ビレを目いっぱいに回転させて見る見る加速をつけていく。


 潮の描いた軌跡を寸分狂わず辿り、瞬く間に盲導犬に追いついた。


「しゃぁッ!」


 行方をじっと見守っていた青年団の、湿り気を帯びた雄叫びが爆発した。色鮮やかな大漁旗が再び右へ左へ踊る。


 犇くような大観衆は一様に声もなかった。ただ、為す術なく呑み込まれる。ただの人間が、盲目のイルカを導いて泳ぐこの光景に。


 ただ1人、最前列にいた派手な金髪の青年が、柵に目一杯張り付いて高々と拳を突き上げた。


「ぶちかませ、蒼衣ーッ!」


 ぐんぐん、ぐんぐん、際限なく加速していく2つの魚影。あの男は化け物か。この速度はもう、イルカと見分けがつかない。


 何よりビビだ。前を泳ぐ潮との距離は数メートル離れている。ビビには何も見えていないはずだ。にも関わらずまるで見えない糸で結ばれたように、ビビは精密に潮の泳いだ跡を追っている。


 とうとう我に帰った観衆の興奮が飽和して、喉を枯さんばかりの咆哮が会場全域を揺るがした。


 --私は夢でも見ているのか。


 魂の震えに導かれて、源治は思い出した。なぜリスクばかりでリターンの少ない水族館の出資を始めようと、20年前に発起したのか。


 まだ体調の良かった妻と、幼い娘を連れてここを訪れた。イルカショーを3人で見た。そうだ。妻子がこの場所をいたく気に入った。人の心が分からない源治は、これほど彼女たちを喜ばせた記憶がなかった。それで……


 源治の頰を、とうに枯れたとばかり思っていた液体が伝って、潮の香りがした。


 妻が永遠に旅立ったのは翌年だ。源治には、わずか3歳の娘ただ1人が残された。一体どんなふうに彼女に接したらいいのか、源治は"父親"を何1つ知らなかった。


 海鳴水族館が閉館の危機に瀕していることを耳にしたのが同じ頃。優秀な家政婦を2人雇って凪の世話を全て委託すると、源治は海鳴の新オーナーに名乗りを上げた。


 経営学に明るい源治ですら、水族館の経営は暗中模索の日々であった。それでも幾度となく陥った閉館の危機を、その度どんな手を使ってでも、私財を切り崩してでも突破してきた。


 いつの間にか、なぜそうまで"この場所"に執着するのか忘れてしまっていた。ビビが、埋もれていたそれを示してくれたのだ。盲目だったのは自分の方だった。



 真に守るべきは水族館ではなく、あの日妻と娘が愛した、水族館に生きる者たちだった--



 ビビの叫びが聞こえる。錯覚ではない、この場にいる全員に聞こえたはずだ。心から幸福を表す、嬉し泣きにも似た魂の叫びが。


 源治が呆けている間に、一瞬、2人を見失った。どこだ。潤んだ視界を凝らして、蒼い水面の向こう側に彼女たちを探す。


「……ビビの…………完全復活です……!」


 絞り出してとうとう嗚咽を漏らし、男泣きを始めた海原に笑いかけるように。


 大観衆の湿った絶叫に押し上げられて、盲目の青はその身体を、晴天の夏空に誰よりも高く舞い上げた。

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