第3話-1
屋内の海なんて初めて入ったが、波がいないことや生物の気配がないことを除けば外の海と遜色なかった。壁面上方にかけられた丸時計は、間もなく午前8時を示すところ。これからいよいよ、本格的に試験がスタートするらしい。
程よい緊張感で引き締まった全員の顔を見回して、海原が笑顔で声を張り上げた。
「最初の試験を始めます。内容はとってもシンプルです。今から僕が合図をしたら、息の続く限り水中に潜ってください。そのタイムを測らせてもらいます」
はい、と蒼衣以外の4人が気持ちの良い返事をした。ぼーっとしていた蒼衣も慌てて続く。
体のどこか一部でも水面に出た時点で計測終了となるルールらしい。これだと、体が浮いていかないようにコントロールしながら潜水することが求められる。
「皆さんの全身が完全に水没したタイミングでそれぞれ計測を開始します。相対的な評価は一切しません。こちらで定めた基準タイムを超えて潜り続けていられれば皆さん通過となりますし、その逆もあり得ます」
ふうん、なるほど。
4人が良い返事をするのに必死な一方で、蒼衣は規則的な呼吸を繰り返しながら、自然体で水面に浮かんでいた。
やっぱり水の中はいい。余計なことが何も気にならなくなる。潜ればもっともっと思考がシンプルになって、まるで誰もいない別の惑星を旅しているような、穏やかな心地になる。
号令はまだか。早く潜らせろ。
目を閉じた。例えゴーグルをしていても、蒼衣は潜る直前必ず両目を閉じる。これは自分なりの作法で、たぶん武道で最初正面に礼をするのと似ている。もしくは、祈りを捧げるようなものかもしれない。
「始めてください」
汐屋の号令に合わせて目を開いた。酸素を深く深く取り込む。数秒かけて肺を満たした後も、唇を閉じたり開いたりしながら更に空気を吸い込んでいく。肺が風船のように膨らんでいくのが分かる。全てが整うと、蒼衣はもう一度目を閉じて、水の底を目指し潜水した。
頬を撫でる水温が心地よい。音が低く鈍く、滞った水中の世界は、まるで時間の流れさえも遅くなってしまったように錯覚することがある。
透き通った綺麗な水だ。これなら外からでも、中を泳ぐ生物の姿がよく見えることだろう。水を美しく保つのは簡単なことではない。水質管理の徹底ぶりに、蒼衣は密かに感心した。
するりするりと水をかいて、蒼衣は間もなくプールの底へ到達した。そこに尻をつけ、あぐらをかいて上を見上げた。煌めく水面でもがく8本の足。驚くことに、まだ誰も潜ってさえいない。
全身が完全に水没したタイミングで計測を開始します--なるほど、つまり号令と同時に潜る必要は全くないわけである。むしろ全員よりなるべく遅れて潜った方が、心と体に余裕を持ってライバルを観察できる。
冷静というか、小賢しいというか。ダサいというか。蒼衣は鼻で嘲笑した。
やがて1人、2人と潜り始め、号令開始から30秒ほど経ったところで全員の水没が完了した。体の一部でも水面に出てはならないというルール上、やはり全員プールの底まで潜ってくる。
無呼吸でいると、不思議と頭が冴える。蒼衣の場合はもう中毒なのかもしれない。麻薬的な快感だ。息を止めて水の中に居る間、蒼衣は全ての束縛から解放された気分になれる。
思えば、水の中でじっと座っているというのは初めての経験だった。なかなか悪くない。光る水面を見上げていると、生まれる生物を間違えたとさえ思う。息が永遠に続いたなら、ずっとこうしていたい。
ぼちぼち気分が良くなってきた頃だった。蒼衣の次に入ってきた女の子2人が、口元を両手で押さえて床を蹴り、決死の表情で水面へ急いだのである。
--うそ、もう? まだ2分も経ってないのに。
3人目も間もなく後を追った。4人目の男--さっき見事な飛び込みを決めた男だ--はそれから30秒ほど粘ったが、顔を真っ赤にして遮二無二水面に急いだ。どういうわけか、水底に座る蒼衣にお化けを見るような目を向けて。
拍子抜けというか、不審に思うほどだった。ここからが気持ちいいのに。もったいない。どれ、と思いつきで仰向けに寝転がってみるとこれが存外悪くない。
ああ、いい。いいこれ。
それにしてもあの8本の足は揃いも揃って情けない。水底から水面を見下しながら蒼衣は嘆いた。ただでさえ蒼衣より遅く潜ってきたというのに、あいつらは合格する気があるのか。
--……ん? 合格……?
しまった、と思うにも遅すぎた。
「ぶはっ!」
自らの過ちに気付くや否やロケットの如く水面に顔を出した蒼衣に浴びせられる、どよめき混じりの喝采。
「すごい蒼衣君! 4分ジャスト! 今日までの受験者の中でダントツ最高記録だよ!」
「そんな勢いで飛び出してくるまで我慢してたとは……気合入ってんな。その熱意高ポイントだぜ」
「すごい肺活量ですね、尊敬します」
海原、黒瀬、汐屋が口々に絶賛する。しまったぁぁぁぁ調子に乗ってうっかりぃぃうわぁぁぁぁぁぁぁぁ!
「くそ、お前、マジすげえな……俺もまだまだだ。まさかここまでドルフィントレーナーに賭けてるやつがいたなんて」
例の男が、そんなことを言いながら何やら蒼衣を認めるような爽やかな目で見つめてくる。逆逆! こんな仕事に1ミリも熱意ないし一刻も早く帰りたいから!
蒼衣の胸中は1つだった。
やらかした。
汐屋の発表した基準は女性が1分45秒、男性が2分。女性陣に続いて上がってしまった男性1人が不合格となった。彼は悔しげに唇を噛み、海原達に一礼して退室していってしまった。潜水服のまま。たぶん、この水族館を出てから着替えるのだろう。
そんな彼には悪いが、蒼衣に言わせれば基準が低すぎである。手を抜くにしても2分未満で限界がきたフリをするのは、さすがに恥ずかしくてやってられない。
なにが倍率100倍だよ、こんな試験じゃわざと落ちる方が大変だ。次、次こそはどっかでヘマしないと……--
しかし。次の試験、水中での運動能力と視野の広さを測るためのカラーボール拾いでも、続く自由遊泳も蒼衣は無難以上にこなしてしまい、その後不合格を言い渡される受験者は1人も現れなかった。
蒼衣は項垂れた。知らなかったのだ。自分がこんなにも手加減の苦手な人間だったなんて。優秀すぎる肉体と神経は頭で抑制しようとするより早く最適な動きを実行してしまうし、そもそもどれくらい抑えれば凡人のレベルなのかも分からない。
海原の指示で、蒼衣達はいったんプールサイドに上がった。他の受験者にも疲れが見え始めている。蒼衣は別の意味で非常に疲れていた。そろそろ本格的にまずい。この中で自分が頭抜けているのは贔屓目抜きに明確だ。このままでは時給820円でこき使われる奴隷となってしまう。
「皆さん、お疲れ様です! いよいよ次が最後の試験になります」
海原の笑顔がそろそろ精神的にしつこい。いっそこいつをぶん殴れば楽にクビになれるんじゃないか? とバカな思考に支配されるぐらいには参っていた。
て、え、最後?
緊急事態である。つまり次が不合格になる最後のチャンスということ。これまでの成績を鑑みると生半可な失敗では足りない気がする。致命的にやらかさなければ。やっぱり海原を殴るしか……
「最後の試験は、"彼女"達とバディを組んでもらいます。カモーン!」
半分ショーのノリになっている海原。朝イチから明るい男だったが昼に近づくにつれて磨きがかかってきている気がする。
それにしても、彼女達って誰のことだろう--どうやら見当のついていないのは、蒼衣だけらしかった。受験者達が色めき立つのを肌で感じる。そして。
プールの壁の1つ、分厚いシャッターになっていた部分が開いた。水が減るようなことはない。向こう側にも同じ海水が満ちているのだ。長いトンネルの向こう側から--マーメイドに先導されて、ソレはやってきた。
筆が紙の上を踊るような滑らかさで海をなぞる、藍色のつややかな流線型。愛嬌のあるつぶらな瞳。シャープな鼻先。大きな口。顔に似合わないその迫力。
遊泳、とはこの光景のことを言うのだと思った。海を住処とする者だけが辿り着ける境地。水を切る動きはどこまでも流麗。
それを導いてきたのが汐屋だった。人魚と本気で見紛う。4頭のイルカと並び、友のように泳いでくる。イルカと目を合わせて微笑む姿は、まるで会話しているようにも見えた。
そういえば、いつの間にか汐屋がいなくなっていた。先導の準備をしていたのか。
「かわいいー!」
「かっけえ……」
受験者達が思い思いの感想をつぶやく中蒼衣は--美しい、と思った。
イルカが、ではない。汐屋がでもない。イルカと人間が並んで泳ぐというその光景そのものが、ひいてはイルカと彼女の間の目に見えない絆のようなものが、眩しく美しく感じられた。
イルカを見たのは小学生以来だが、感動がまるで違う。自分の体はあの頃より大きくなったはずなのに、イルカが記憶より随分大きく見える。その存在感には敬意さえ覚えた。
あれは蒼衣の憧れる、海で生きる者の極致。理想形だった。
思えばこの瞬間から蒼衣は、イルカに、この職業に、既に抗いがたい引力で惹きつけられていたのかもしれない。
「最終試験は、イルカとのコンビネーション演技です」
楽しげな笑みとともに放たれた海原の言葉に、蒼衣を含め受験者の間で激震が走った。
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