第2話-3

「みなさん承知の上で志願されたとは思いますが、ドルフィントレーナーは体力と精神力が求められる大変な仕事です。まずは最低限の運動能力適性があるか見させていただいた後、段階的にみなさんの精神的適性も見させていただこうと思っています」


 笑顔で、よく通る声で海原が段取りを説明していく。進行慣れしている感じだ。職務で鍛えられた力だろうか。蒼衣には真似できそうにもない。


「それでは各自、2人1組でストレッチをしてから入水してください。深さは5メートルありますから、万が一にも溺れないように」


 苦笑する海原がどうぞと手を叩くと、それまでどう見ても初対面だった距離感の受験生4人が、手際よく声をかけ合いあっという間に同性ずつのペアを作ってしまった。蒼衣がバカみたいに突っ立っていた僅かな間にだ。


「あー……すいません、余りました」


 仕方なく手を挙げて申告。海原はうん、と頷くとおもむろに隣の隣を振り返った。


なぎちゃん、蒼衣君とペアを組んであげて」


「はい」


 これは、なんたるケガの功名!


 ちらとこちらを振り返った彼女と目が合った。可憐な微笑を浮かべて駆け寄ってくる美女に、すいませんと頭を下げながら蒼衣は思わぬラッキーを噛み締めた。


 あんな綺麗な女の子とペアでストレッチなんて、それだけでも今日来た甲斐があるというものだ。


「いや汐屋、俺が行こう。男同士の方が彼も気楽だろう」


「あっ……確かにそうですよね。ありがとうございます」


 下の名前は凪ちゃんって言うのかぁ、なんて考えていたところに、聞き間違いであって欲しい不吉なハスキーボイスが耳朶を打った。恐る恐る顔を上げる。こちらに向かって歩いてくるのは彼女ではなく、筋骨隆々の金髪メッシュお兄さん。


「よろしく」


「よ、よろしくお願いします」


 引っ込めよオッサン! とは間違っても口に出せず、蒼衣はため息を飲み込んで頭を下げた。


 --あーあ、あいついきなりミスったな。減点おつかれ。


 蒼衣は目だけでなく耳も良い。若い男同士でペアを組んでいた2人組の方角から、トーンを落としきれていないささやき声とクスクス笑いが微かに届いた。


 不快に思い無言で睨む。目が合うと男2人は口元のにやけを誤魔化してストレッチを再開した。どちらも蒼衣と年が近そうである。


 減点、なるほど。もう試験は始まっているということらしい。蒼衣はうんざりした。


 迅速に初対面の人間とコミュニケーションをとり、いち早くペアを作ることができるかどうか。何気ないところだが確かに1人余ってしまうのは印象が良くない。思えば大勢の前でショーをする仕事の適性検査、対人能力の有無は当然観察されているはずだ。


 どうりで蒼衣以外の4人とも、異常なほど動き出しが早かったわけだ。彼ら彼女らは、蒼衣と違って試験内容や合格基準に既にある程度の見当と心得を持ち合わせている。


 それにしても、ストレッチの段階で減点だなんてまったく……なんてラッキーなんだ。


 そんなことを思いながらプールサイドに尻をつけて開脚し、前に倒れると後ろから黒瀬がちょうどいい力加減で押してくれた。


「柔らかいな」


「……そうですか?」


 反射で得意になった蒼衣の背を、今度は気持ちばかり強く押す黒瀬。蒼衣の体は胸までプールサイドにベッタリついた。


「悪いな、野郎が交代しちまって。海原サンはノーテンキだから気にしねえんだろうが、彼女も男と水着でペアストレッチは抵抗あるだろう」


「いや、別に俺は……」


 口ごもりつつ、見た目ほど怖い人ではないのかもしれないと蒼衣は黒瀬の認識を改めた。気配りのできるいい人ではないか。蒼衣には余計なお世話だったが。


「そろそろいいですかね。じゃ、一回集合しましょう」


 海原の声かけで、5人の受験者と黒瀬が元の位置に整列する。


「まずは水中での無酸素耐久力を測らせてもらいます。皆さん入水してください!」


 待ちかねたゴーサインに全身の血が踊る。ようやく水に入れるのである。だが蒼衣は2列縦隊の最後尾。見るからに緊張しながら最前列の女子2人が順番にプールに入っていくのを、ウズウズしながら見守っていた。


「ちょっと、近いんだけど」


 3人目が銀色の手すりを使ってプールに入ったところで、蒼衣の前を行く男が怪訝な顔で振り返った。3人の試験官には聞こえないよう落としたボリュームの声だった。


 短髪に細い眉とシャープな目が特徴的な、蒼衣より2つ3つ年上と見える男。減点だのとブツブツ言っていたのもこいつだ、さっきからやたらと突っかかってくる。


「あ、すんません」


 早く入りたいあまり気持ちが前に行きすぎて、つい距離を詰めすぎていたようだ。一応謝ったが、わざわざ因縁をつけてくるほどの距離でもないのに……とむくれた矢先。


「見とけ」


 男は挑戦的に鼻を鳴らし、空けてやったスペース分後退したかと思うと、するりと小走りに駆け出した。


 瞬く間に到達したプールサイドのへりを蹴り、空中で頭と足の位置を軽やかに入れ替え、そのまま着水。成人男性の質量が落ちたとは思えない、軽く静かな水しぶき。


 綺麗な入水だ。まるでこれだけを何百回と、この日のために練習して来たような。


「ここでもアピールかよ……うぜー」


 眉をひくつかせながら引き気味に呟く。だが実際見事だった。少々わざとらしいが、印象づけの効果は十分。


 海原が歓声を上げ、黒瀬が苦笑する中、さっきの男が水面から顔を出してこちらを見た。得意げな視線が蒼衣の網膜に届く。


 その瞬間、蒼衣の体は得体の知れない衝動に支配された。走る。無駄なく、水深5メートルの海に向かって緩やかに足を回した。近づいて行く青い水面。


 プールではなく海で生きてきた蒼衣は、あんな飛び込みをしたことなどない。見よう見まねだ。さっき、あいつは多分、こんな風に踏み切って--


 舞い上がった長駆は自分の意のままに操れた。爽快感が津波の如く全身を殴りつける。重力を感じない。眼下いっぱいに広がったブルーの美しさに、これほどハッとした日はなかった。


 しなやかに空を泳いだ蒼衣は芸術的な放物線を描き、吸い込まれるように水面をくぐった。水に入っても驚くほど抵抗を感じなかった。瞬く間にプールの底を視界に捉える。興奮と鳥肌が一瞬遅れて体中を駆け巡る。


 水面に顔を出すと、全員の顔が、今度こそ蒼衣1人に注目していた。海原は目を丸くし、黒瀬は意味深に笑い、前に飛び込んだ男はあんぐりと大口を開け、そして汐屋の凛と澄んだ瞳も、蒼衣を捉えて離れない。


 抑えきれない快感。自分の知らなかった自分を見つけた気分だった。父の言葉通りで気に食わないが、ダイビングばかりやっていたら決して気づけなかったこと。


 --人前で泳ぐの、超気持ちいい!

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