第5話-2

 今朝来たばかりのはずなのに、全く違う場所に感じた。


 近くの停泊場に船をとめて、今度は客として海鳴水族館にやってきた蒼衣。時刻は5時半を過ぎている。受付前のタイムスケジュールを見ても、最後のイルカショーは既に始まっている時間だった。


「おい、帰ろうぜ。こんな時間に入っても金の無駄だろ」


 20分少々しか滞在できない水族館に1800円も払えない。受付のお姉さんもこの時間帯にいい大人の男が2人来たことに困惑げな表情だ。構わず札を4枚出そうとする涼太を蒼衣が必死にとめているところである。


「金は気にすんな、奢ってやる」


「どうしてそこまでするんだよ! いいっつってんだろ、もうこんなとこ来たくねえのに……!」


 力は蒼衣の方が強い。それでも涼太は有無を言わさぬ笑顔だった。


「小学校入る前からの付き合いだろーが。やうやく蒼衣が、なんかいい感じに変わろうとしてる気がするんだよ。結局最後はお前次第だし、オレにできることなんてこんぐらいのもんだけど、やれることは全部やってやりてーじゃん」


 すんません、大人2枚ね。涼太は硬直した蒼衣を振りほどいて受付に金を支払ってしまった。働きもせず、さんざん見下した職場に落ちた情けない自分なんかのために、ここまでするバカが理解できなかった。


 そういえば、付き合っていて面白くもないであろう自分と、飽きもせずつるみ続けているのは唯一涼太だけだった。涼太の方が、よっぽど変人だ。


「……金は返さねえからな」


 そう毒づいてようやく中に入る決心がついた。少し訝しげなお姉さんの視線に見送られて、蒼衣と涼太は水族館のゲートをくぐった。


 パンフレットの見取り図を頼りにイルカショーの場所を探す。どうやら屋外にプールがあるようだった。試験会場だったプールからほど近い。恐らく太いパイプか何かで下が繋がっているのだろう。


「男2人で水族館とかバカみてえだな」


「じゃあ連れてくんなよ!」


 屈託なく笑った涼太を怒鳴る。気分は最悪だった。ショーには海原も黒瀬も汐屋もいるだろう。見つかったらどんな顔をすればいい。彼らは、どんな顔をするのだろう。


「だって、見てみてえじゃん。どこ落ちてもけろっとしてた蒼衣がそんなに落ち込むほどの職場だろ。寺田工業なんか目じゃない魅力があるってことだ」


「寺田工業の方がいいに決まってんだろ。時給820円だぞ」


「ますます気になるじゃん」


 ヘラヘラ笑ってずんずん先を行く涼太の後を、気乗りしない足取りでついて行く。やがて遠くから、大勢の歓声が蒼衣の耳に届いた。どくん、と心臓が脈打つ。


 水しぶきの音。海原の明るい声。観客の笑い声。近づいてくる。不思議なことに、蒼衣の足は早まっていた。ここに忘れて来た大切なものが、小さく蒼衣を呼ぶ声が聞こえるような気がしたのだ。隣に追いついて来た蒼衣に、涼太が満足げに笑った。


 壁面に『 イルカプール こちら』と示された矢印の先に外へと続く扉。蒼衣は涼太を追い越して、深海を求めるように力一杯扉を押し開いた。黄昏れた陽の光とともに、聞こえていた喧騒が爆発的に高まって蒼衣を殴りつけた。


 扇型の客席は満席。試験会場だった屋内プールの倍は下らない、大きな大きなプールはもはや海を見ているようだった。空間を流れる軽快なBGM。1人プールより客席側に立った海原が、ちょうどショーがクライマックスを迎えることを告げた。


 観客は一様に微笑みをたたえて、優雅に泳ぐイルカたちにキラキラした視線を向けている。汐屋と黒瀬のエキシビジョンを目の当たりにしたとき、きっと蒼衣も同じ顔をしていたのだ。


 青の中を泳ぐ彼女の姿を一目見たとき、蒼衣はその全てを思い出した。


「ちょ、蒼衣?」


 プールに背を向けた蒼衣にぎょっとして、涼太がその肩を掴んだ。


「悪い、涼太、先に帰っててくれ」


「……お前は?」


「やり残したことがなんだったのか、思い出した。もう手遅れなの分かってるけど、このままじゃ帰れない」


 気を抜けば泣いてしまいそうだった。鉛のような罪悪感を胃のあたりに感じる。謝らなければ、帰れない。


「……そうか。なんかわかんねえけど連れて来た甲斐があったな」


「涼太、マジでありがとう。金は返すからな!」


 心からの感謝を伝え、蒼衣は来た道を逆走した。


 どこだ。館内を走り回りながら必死に蒼衣はあの場所へと続く道を探した。見取り図のどこにも載っていない。従業員だけが使う場所なのか。


 今朝の記憶を引っ張り出して、蒼衣は水族館の外へ飛び出した。賑わった駐車場を縫うように駆け抜け、建物を迂回。裏手の従業員用駐車場に辿り着く。


 関係者以外立ち入り禁止、の札を完全無視して蒼衣は裏口扉を開け放った。今朝海原に先導されて通ったばかりの、暗く埃っぽい廊下が蒼衣を迎える。もう、あの時とは心境がまるで違う。


 記憶だけを頼りに、蒼衣は横腹を痛めるまで走った。行き過ぎては戻り、迷子になりかけ、それでも少しずつ目的地に近づくにつれ、道のりが鮮明に思い出されてくる。


 廊下に乾いた靴音を反響させながら、疾走して疾走して疾走して、とうとう目当ての場所にぶつかった。分厚い扉に体当たりせんばかりに飛びつく。この先だ。ずいぶん時間がかかった。間に合っていてくれ--


 ガチャガチャ、とノブが残酷な重い音を鳴らした。扉は施錠されていた。蒼衣がどうしてももう一度だけ訪れたかった今朝の試験会場は、その音とともに蒼衣を拒んだのだった。


「はぁ……はぁ……はぁ……くそ……」


 蒼衣の体内時計は正確だ。もう閉館時間を過ぎている。それでなくても部外者の自分は、一刻も早くここから立ち去らなければならない。


 汗だくの体がいやに早く冷えてきた。帰ろう。気落ちとともに冷静さを取り戻し後ろめたくなった蒼衣は、ため息を漏らして踵を返した。


「関係者以外立ち入り禁止だよ、ここ」


 後ろに、海原と黒瀬が立っていた。どきりと心臓が跳ねる。ショーを終えて戻ってきたところだろうか。彼らの視線が痛い。蒼衣は反射的に頭を下げた。


「ごめんなさい! あの……お願いがあります」


 自分を落とした試験官に頭を下げるなんて、今までの蒼衣なら逆さに振っても出てこなかったはずの行動だ。プライドをかなぐり捨ててでも、今、どうしてもせずには帰れないことがあった。


「もう一度だけ……ビビに会わせてください……!」

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