第12話-3
大吉の引き連れて来たチンピラたちの働きぶりは見事と言うほかなかった。
人は見かけによらないものだ。腹から張った大きな声をかけあって、ひとりひとりが役割を見つけてテキパキと動く。男たちが右へ左へキビキビ行き交うのを、蒼衣たちは目を見張って眺めていた。
彼らは蒼衣たちの恐縮も意に介さず服を脱ぎ、下に履いていた海パン一丁になって自らプールに飛び込み、ついにネットの設置までも彼らだけで終わらせてしまった。
まだ作業を開始して10分程度しか経っていない。恐るべき手際とチームワークだ。これが海の男たちか、と蒼衣はただただ感服する。
「こんなもんでいーっすかー?」
「おう、バッチリだぁ!」
「なんで親父が仕切ってんだよ」
ツッコミを入れたものの、文句の付け所がない出来栄えだった。ネットはプールの壁1面から僅かに中心側に離したように位置取っており、これならビビがどんな暴れ方をしても壁に到達することはない。壁に接するように設置してしまうと、その壁1面からはネットでもビビを守ってやれなくなる。
開閉式の出入り口を壁側に向けて設置してある。ビビをプールに飛び込ませたら、水中でスタンバイしてくれている海パン姿のチンピラ漁師たちが、蒼衣とビビがネットの中に入ったタイミングで出入り口を閉じてくれる手筈だ。
時刻はもう10時を優に回り、とっくに通常の退勤時間を過ぎている。そういえば夕飯もまだだったが、気持ちはそれどころではなかった。
ここまでお膳立てしてくれたのだ。ビビを再びショーに出すために、強引な手を何度も使ってまでして、色んな人の手を借りてまでして、ようやくここまで、あとは蒼衣がこの命を賭けるだけという段階まできた。
「……今更なんすけど、息子さんは何をしようとしてるんすか?」
ネットを提供してくれた養殖漁師の青年が、隣の大吉に向かって尋ねる声が聞こえた。
「あのイルカは目が見えなくなっちまったらしい。蒼衣は、そいつの目になってやるんだとよ」
「……そんなことできるんすか。言葉も通じない、しかも水中の生き物相手に」
通じるさ。蒼衣は強く、心の中で肯定した。
言葉なんて必要ない。人間同士だって、本当は言葉なんかなくたって怒りも愛も伝えることができるじゃないか。
ビビの入ったケージの扉を、慎重に解錠する。否応なく手が震えた。ゴーサインはまだ出さない。ビビは蒼衣の言うことをしっかり聞いて、蒼衣のすぐ傍まで腹ばいで進んできた。
彼女の瞳は、じっと、揺れる水面に注がれている。
彼女から確かに伝わる、不安、恐怖。それでもビビの瞳に宿る強烈で無二の光は。ただ、青への憧憬。
それこそが蒼衣が命を賭ける意味だ。
鼓動が早まる。落ち着いて、呼吸を整え、ビビと目を合わせた。それから水中にスタンバイしてくれている海原、黒瀬、汐屋、ネット張りを手伝ってくれた男たちとも順に目を合わせていく。
あの日無理矢理ビビを泳がせた時とは違う。今はこれだけの人がついてくれている。
大きく息を吸い込んでから、蒼衣はビビにゴーサインを出した。勢いよく入水したビビと同時、蒼衣もプールサイドを力強く蹴飛ばして飛び込む。
泡をかきわけ、ビビの背中に手を当ててそのまま真っ直ぐネットの中に飛び込んだ。呼吸を合わせて蒼衣と同時に潜っていた男たちが、素早く泳いで器用にネットを閉じていく。流石は漁師、海原たちに見劣りしない。
成功だ。蒼衣とビビは周囲360度を青い網の檻に囲まれていた。これでもう、ビビがどれだけ暴れても壁に激突して怪我をする心配はない。唯一あるとすれば、蒼衣がビビの暴走に巻き込まれる可能性ぐらいだ。
ビビは不安げにぐるり、ぐるりと水中で体を回し、色んな方向に頭を向けていた。彼女が必死に恐怖と戦っているのが痛いほど伝わってくる。
どんなに超音波を飛ばそうとしても何一つ反応が返ってこない。実際には超音波を上手く発することができていないのだ。すぐそばにいる蒼衣のことだって、水中に入ればビビは見失ってしまう。
まるで宇宙空間のような、無限に広がり続ける無の空間の中心にぽつんと浮かんでいる感覚。そんな発狂ものの恐怖と今ビビは懸命に戦っている。
ビビの不安げな動きが徐々に激しくなっていく。ビビの心がさざ波を立て始め、そして次第に嵐に遭ったように荒れ狂っていく音が聴こえる。
ダメだ、落ち着けビビ。俺は--ここにいる!
蒼衣は無我夢中で叫んだ。無情にも蒼衣を弾き飛ばしたビビは、暗闇の中母親を探す幼子のように、見当違いの方向を闇雲に泳ぎながら必死に蒼衣を呼んでいた。
ダメか、と誰かが落胆する声が聞こえた気がした。蒼衣は気を奮い立たせてビビの後を猛追する。何度弾かれたってもう二度と諦めない。諦めていいはずがない。
どうにかビビに追いつき、その背中に触れた瞬間、ビビは全身を跳ね上げるように蒼衣の手を弾いた。得体の知れない何かがいきなり自分に触れたのが怖いのだ。今、ビビは暗闇の世界にいる。触覚に訴えかけても余計に興奮させてしまうだけだ。
瞬間、蒼衣は天啓に打たれた。上体をがくんと真上に起こすと、水面めがけて急浮上。一直線に加速し、勢いよく水面から顔を出した。
いつの間に思い違いをしていたのだろう。エコロケーションの機能が失われたとしても、ビビにはまだ、イルカとしての鋭敏な器官が無傷のまま残されている。
「ぶはっ!」
トレーナーが水面に顔を出す、この音。30年間ビビがほぼ毎日聞いてきたはずの、人間なら聞き逃してしまうであろうほんの小さな音。
それは水の中を瞬く間に駆け抜けて、ビビの卓越した聴覚に訴えかける。蒼衣が、ここに、いることを。
網に体をこすらせながら出鱈目に泳ぎ回っていたビビの体が、ピクリと硬直して、そして、目が合った。
ビビに遠く離れた蒼衣の姿が見えるはずがない。それでもビビは闇を穿つ光を見出したように、一目散に蒼衣めがけて飛び込んできた。
『ちょっと顔を引き気味にして受け止めないといけません。そうすると……』
懐かしい汐屋の声が静かに再生されて、頭の中に染み渡る。打ち上げ花火のように向かってくるビビの目を真っ直ぐ見つめて、呼吸を合わせ、水面を突き破ってくる瞬間体をそらし、顔を引く。
無意識に笑んだ蒼衣の唇と、安堵にむせぶビビの吻が引き合うように結びついた。重量級の突進をしっかりと受け止めて、お互い水面に顔を出しながら見つめ合う。
「よう……もう見失うなよ」
ビビの体は細かく痙攣するように震えていたが、蒼衣が抱きしめてやっていると徐々に落ち着きを取り戻していった。歓声が上がる。拍手が起こる。やがてすっかり落ち着いたビビが、蒼衣の頰に頭部をすり寄せてきゅうと鳴いた。
ビビの心を水中で安定させることはできた。繰り返し訓練していけば、徐々に暗闇の世界に対する恐怖心も和らいでくるだろう。だがこれはほんの始まりに過ぎない。ショーまで残された時間は僅かだ。
それでも、0から1に変わっただけでこれほど希望的になるものか。やれる。やってみせる。今一度力強く宣誓して、蒼衣はビビを固く抱きしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます