第12話-2
ビビの入水。
それが間違いなく、最初で最大の難関だった。ビビにもう一度ショーに出たいという気持ちがあるのは確かだとしても、現に数日前の入水でビビはパニックに陥ってしまったのだから。
繰り返すうちに慣れるだろう、と安易に水に入れるわけにもいかない。前は蒼衣が体を張って守ってやれたが、入水させるたびに暴れて壁に激突するようではビビの命がいくらあっても足りない。
傾いていく西日の差し込むトレーニングプールの脇に座り込み、蒼衣たちは頭を突き合わせて悩んでいた。時刻は7時半。夜トレの時間は夏休みシーズン中は9時までだが、全員今日は泊まり込む覚悟だった。
蒼衣はまだ泊まった経験がないが、海鳴水族館には緊急時に職員が宿泊できるよう十分な設備が整っている。
そうまでしてでも、ビビが暗闇の水中に慣れるのは一刻も早い方がよかった。スポンジの床に水を張っているとは言え、陸上での生活にビビがあとどれだけ耐えられるか分からない。
1ヶ月は平気なのかもしれないし、早ければ数日で死んでしまうのかもしれない。せめて蒼衣がついている間だけでも水に入ることができるようになれば、ビビの体の負担は大きく減ることだろう。
「プールの水を大半抜くのはどうでしょう。私たちの腰より下まで水位を下げるんです。それならスピードも出せませんし、ビビも怖くなったらすぐ顔を出せますよね」
汐屋のアイデアが一見名案に思えたが、水をそこまで抜いてしまうとプールサイドからビビを下ろせなくなる。水深5メートルのプールだ、まさか上から落とすわけにもいかない。
知恵を絞り合ったが、30分経っても1時間経っても有効な手立ては見つからなかった。無情に時計の針だけが着々と進み、太陽も海にその姿を沈ませていく。
「やっぱり慎重にビビをプールに入れてみるしか……」
「ダメだよ。試しに入水させたその1回で今度こそ最悪の事態になるかもしれない。イルカが水中で暴れたら僕ら人間にはなす術がない」
「ちっ、せめてプールに柵でも立てられたらなぁ。満足に加速できない狭い空間なら、危険も少なくて済むのによ」
黒瀬の呟きが天啓だった。
「そうだ、網を使いましょう! 4方を丈夫な網で囲んだ柵を作るんです! その中でならビビを水に入れられる!」
網でも絡まって溺れる危険がないとは言えないが、硬い壁に比べれば圧倒的にマシだ。興奮する蒼衣に対して3人は浮かない表情だった。
「名案だけど、そんなものを作るとなるとかなり時間がかかりそうだね。今日徹夜してもとても1日じゃ終わらないだろう。そもそも網を用意するのもこの時間じゃ……」
「問題ありません、ちょっと待っててください」
蒼衣は脱兎のごとく駆け出すと、更衣室に駆け込み自分の上着のポケットから携帯を抜き出し、ある人物に電話をかけた。
「あ、親父? ちょっと頼みがあるんだけど……」
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大吉に連絡を入れてから1時間と少し。時刻は間もなく午後10時になろうかというところだった。灯りの類もなく完全なる闇に包まれていた海鳴水族館の関係者用駐車場に、舐めるような軽トラックの前照灯がひとつ、ふたつと侵入してきた。
彼らの到着を今か今かと待ちわびていた蒼衣たちは歓喜して駆け出しかけたが、軽トラックの流れが全く途切れないことに気づくと次第に雲行きの怪しさを感じた。10……いや15台は下らない数がやや乱暴めな運転で続々と駐車していく。
「おう蒼衣、海原ァ。待たせて悪いな」
先頭を走ってきた軽トラックの運転席から、この視界の悪さでも一目で大吉と分かる風体の男が歩み寄ってきた。蒼衣たちの待つライトのついた地点にぬっと姿を現したのは、やはりというか大吉だった。
「大吉さん、お疲れ様です!」
「別に疲れてねえよ」
「すみません! こんばんは!」
「暑苦しいんだお前は毎度よぉ」
つま先に頭がつくかという勢いでお辞儀する海原と豪快に笑う大吉。そう言えばこの仕事に就いたのは大吉からの紹介がきっかけだったが、この2人はどういう関係なのだろう。
「ありがとう親父。急に悪いな、動いてもらっちゃって。……にしてもこの人数なんだよ」
蒼衣は大吉の背後を見やって、さすがに顔を引きつらせた。エンジンの消える音と軽トラックの扉をバンと閉める音が乱立する中、ぞろぞろぞろぞろ、大吉の背後から続々と屈強な男たちが歩いてくる。
漁師風のなりをした者が目立つが、体格といい目つきといい歩き方といい、全体的にガラが悪い。大丈夫なのこの人たち。
「集められるだけ人手を集めてくれっつったのはお前だろ蒼衣」
「この時間から急に声かけてそれでも集まってくれる、常識的な人数を想像してたんだよ……5人とか」
「ガハハ、まぁ俺はこの町じゃちょいと顔がきくからな」
実際に集まった人数は目算で優に30人以上。大吉の人脈と人望がそれなりにあるのは知っていたので協力を要請したが……海原といいこの男たちといい、多くの(偏った)人間から崇拝されているこいつは我が父親ながら何者なのだろう。
「例のものはちゃんと手に入った?」
「あったりめえよ。おい」
「へい!」
大吉が顎をしゃくると、背後で威勢のいい声を上げた数名が前に進み出た。灯りのある場所まで進み出て、蒼衣たちはようやく男たちが数人がかりで何かを抱えていたことを知る。
それは巨大な米俵のように丸められ固められた、丈夫そうな青色の網。蒼衣たち4人は目を見合わせて喜んだ。蒼衣が大吉に探して欲しいと頼んだのは、まさしくこの網だ。最高の仕事をしてくれたものである。
「これこれ! 本当に助かったよ親父ありがとう! 皆さんも、こんな遅い時間にわざわざありがとうございます」
「なぁに、大吉さんのせがれの頼みとあっちゃあ断れねえよ。予備の養殖ネットが倉庫に眠ってたんだ、使えるか? この後も人手が必要ならなんでも手伝うぜ」
屈強で野蛮そうな見た目とは裏腹に人懐っこい笑み。彼らの頼もしさに感極まって深々と頭を下げる。
蒼衣が大吉に用意を頼んだ物とは、養殖用ネット。この街は養殖漁業も盛んだし、漁協に顔の広い大吉のコネクションなら手に入るのではないかと思ったのだ。
元から水中に沈め、さながら檻のように中の生物を管理するために作られているので手を加えることなくそのまま使えるし、しなやかかつ強靭な網はビビの体を守るはずだ。
予備知識のない蒼衣だが、設置にはそれなりに人手がいるだろうと思いついでに集めてもらった。ちょっと想定外の人数が来てしまったが、一部だけ帰ってもらうのもなんだし快く手伝ってくれるみたいなのでお言葉に甘えよう。
海原が1人1人に礼を言って周り始めた。黒瀬もそれに続こうとする。
「すんませんね、悪いけどよろしくお願いしま……あ」
「いやいや大したことじゃ……あ」
黒瀬が、最初の1人と顔を合わせた時点でお互いに言葉を切った。なにやらただならぬ不穏な空気が黒瀬と、大吉の連れて来た1人の男の間に流れ始める。
「……久しぶりだな黒瀬。黒いオオカミとか呼ばれて天狗になってた
鋭い眼光を向けて黒瀬にメンチを切る男。なに!? なんの因縁!? 特攻隊長ってなに!?
「おぉ懐かしいアホ面だな。そっちこそ随分丸くなっちまったじゃねえか。見る影もねえメタボ腹しやがって」
「カッチーン……」
ずいずい距離を詰めてメンチを切り合う2人。他の男たちも黒瀬の顔に気づくなり一様に蛮声を上げ始めた。黒瀬さんこの人たちに何したの……。
蒼衣が頭を抱えかけたとき、背後から飛び出した人物の束ねた黒髪がふわりと揺れた。
「あのっ、やめてください! そういうの後にしてください! イルカのために皆さんの力が必要なんです、今は力を貸してください! お願いします!」
身体のラインがくっきり浮き出るタイトなウェットスーツに、パーカーを羽織っただけの姿の汐屋を、押し黙った男たちは頭からつま先まで舐めるようにじっくり見つめた後、殺気を嘘のようにおさめて元気に手を挙げいい返事をした。全員の鼻の下が見事に伸びている。凪ちゃんすげえ。
「蒼衣」
進み出て来た大吉が蒼衣の肩を叩く。そのニヤニヤ笑う顔の腹が立つこと。大吉が何を言いたいのか蒼衣には分かっていた。
「やっぱり、お前だけの夢じゃなかっただろ?」
「……まぁな」
悔しい。蒼衣に分からなくて、蒼衣がMCをした時のショーを見に来た、たったあの日一度ビビを見ただけの大吉にビビの心が分かったのが、蒼衣は悔しかった。
「バカでも分かるさ。あの時のあのイルカ、これ以上ねえってぐらい楽しそうにしてたからな。お前が勝手に諦める方がよっぽどもったいなくて、それこそ身勝手だと思っただけだ」
蒼衣と大吉に気を使ったのか、海原たちが大吉の集めたチンピラたちを建物の中に誘導していった。大勢の人数がビビの待つプールへ向かっていくその背中を見つめながら、蒼衣はぼそりと呟いた。
「……ずっと言えなかったことがあるんだ」
「あん?」
「俺にこの仕事を紹介してくれて、ありがとう」
大吉は彫りの深い両目をまん丸に見開いて、宇宙人でも見るように蒼衣の顔をまじまじと見つめた。
「……なんだよ」
「ガハハ! なんでもねえ! おら俺たちも行くぞ!」
強引に背中を押されて、とういうよりど突かれて蒼衣は渋々歩き始めた。
人がせっかく勇気を出して素直になったというのに、そっちが照れ隠しに煙に巻くのはずるいだろ。
「……おかしな話だ。1年に数回会うかどうかだった今までより、毎日顔合わせてたこの1ヶ月半の方が……見るたび見違えやがる」
背後で大吉が何か呟いたが、蒼衣にはよく聞き取れなかった。
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