第12話-1

「おい、蒼衣君! 連絡もよこさないでいきなり帰って来たと思ったらなんださっきのは!? 勝手なことをするなと言ったばかりだろ! こら止まりなさい!」


 ご立腹の海原が背後からツカツカ追いかけてくるのを無視して、蒼衣は廊下を歩く足を早める。向かう先はいつもの場所。


 海原の後ろを同じペースでついてくる黒瀬と汐屋は、どういうわけか上機嫌だった。


「そんなこと言って海原サン、蒼衣が戻って来て嬉しいくせに」


「嵐君は減給処分にするよ!? 手を出したらなにもかも水の泡なんだよ分かってるのか!? あいつは君のクビを狙って挑発してたんだよ!」


「海原サンだって腹立ったでしょ」


「当たり前だ! けど暴力はダメだ! 僕ならもっと完膚なきまでに大衆の面前で恥をかかせてやるよ!」


 それもどうかとは思ったが、あのインテリオーナーにはらわた煮えくりかえっているのはきっとイルカチーム、いや職員全員同じだろう。


 会議の様子は、ほぼ最初から外で聞かせてもらっていた。初めて参加したらしいあのオーナーがいたこともあり、蒼衣がこの数日間の現状を把握するのは容易かった。


「蒼衣君! それよりさっきの話を説明しなさい! 君のせいで僕らが苦労して進めて来た提案がもう、なんていうか、どっか行っちゃったんだよ!? 明日からの会議で僕なに話せばいいの!?」


「あの提案が通るようなら乱入するつもりはなかったですよ。あそこはもう啖呵を切るしかなかったんです。おかげで言質を取れました」


 館長や他のスタッフを含む全員の聴く前で交わした会話は、実質公約に近い力を持つ。あそこで約束させたからには、オーナーはその言葉に嘘をつけないだろう。舞台は整った。


 あとは蒼衣が、ベストを尽くすだけだ。


 トレーニングプール目前まで来て、蒼衣は足を止めた。ガミガミ言い続けていた海原が言葉を切って止まる。蒼衣は初めて彼ら3人に正面を向けると、深々と頭を下げた。


「すみませんでした。この間ビビを無理やり泳がせようとしたことも、ずっと電話取らなかったことも、今日のことも。本当は皆さんにまず話してから、会議に参加させてもらおうと思ってたんですけど。止むを得ず順番が前後しました」


「……この間のことはもういい。僕の方こそ言い過ぎた。電話のことも構わないさ。心配したけどね。戻って来てくれて嬉しいよ。けど……さっきの話はきちんと説明してくれ。勝手にどんどん話を進めて、君だけの問題じゃないんだぞ。僕らは仲間なんだから」


 蒼衣は顔を上げ、頷いた。海原ならそう言ってくれると思っていた。一度背を向け、扉の鍵を開けてトレーニングプールの中へ。


「さっきここへ来たんです。閉館後なら全員揃ってるかなって思ったんですけど……会議が始まる直前だったんですかね、誰もいませんでした。更衣室に置いてあったんで、この資料も読ませていただきました」


 ビビのためを思って海原たちが考えてくれたのであろう、ビビ専用プール。これなら彼女も比較的安全に水中で生活できるであろう。盲導犬となる覚悟を決めたとはいえ蒼衣も24時間ついていられるわけではないので、このプールはビビに絶対必須だ。


「このプールを作らせるために言質を取る必要があったんです。3週間……短く感じますけどビビの体を考えると長すぎるぐらいです。なんとかそれまでに、ビビを前みたいに泳げるようにしてみせます」


「蒼衣君……君は変わらないんだね。その気持ちは嬉しいし、痛いほどよくわかるが、また繰り返す気かい? 無理矢理ビビを君のエゴに付き合わせて、結果お互いに怪我をしたんじゃないか」


「エゴじゃありません」


 蒼衣は今、心から断言できた。


「さっきここに来たのは、ビビに会うためです。なんか、あの日ビビに謝りに来たことを思い出して懐かしい気分でしたよ」


 思わず苦笑を浮かべて、蒼衣はさきほどのビビとのやりとりを噛み締めた。



 あの日と違い、蒼衣は鍵を持っていた。無人のトレーニングプールに入り、更衣室で制服のウェットスーツに袖を通す。あの日を最後に二度と着ずじまいというのは、本意ではなかったから。


 ビビはケージの中に入れられていた。蒼衣は彼女と、5日ぶりに再会した。


 今日、蒼衣はビビに、謝罪を、感謝を、そして別れを告げに来たのだった。


 ビビは蒼衣の姿に気づくなり、初めて見せる表情になった。きゅうと鳴きながら吻で蒼衣の左手をつつく。


 どうやら怪我を心配してくれているらしい。あんなに混乱していたのに、その中でも蒼衣に怪我を負わせてしまったことを覚えていたのか。


「もしかしてずっと気にしていたのか? バカだな、謝るのは俺の方だろ」


 蒼衣は胸いっぱいに満ちて決壊する愛しさに喉を詰まらせて、手首にすり寄るビビの頭を抱きしめた。どうしてこんなに可愛いビビに、神は試練を与えたのか。彼女は誓って何もしていないのに。


 今までありがとう。本当は、今だってお前とショーに出たい夢は変わらないんだよ。けど自分のエゴでビビが苦しむのは耐えられない。頭を切り替えて他のイルカと夢を追う気分にもなれない。


 だから……さよならだ、ビビ。短い間だったけど、お前と一緒に泳げて本当に幸せだった。


 大好きだよ、ビビ。


 全ての気持ちを無言で伝え終えた蒼衣は、やがてビビから離れるように立ち上がった。自然に目頭が熱くなる。満たされていた何かが、温もりが逃げていくように蒼衣から抜け出ていくのが分かる。


 エコロケーションの機能が失われた今、もう、ビビに蒼衣の心が通じるのか分からない。ビビには蒼衣がまさか別れを告げに来て、今日を境に二度とここに来なくなるなんて思いもしないだろう。


 それでいい。伝わらなくていい気持ちもある。湿っぽいのは嫌いだから。繋いだ手をそっと離すように、蒼衣がビビに背を向けた。


 次の瞬間。


 細く鋭い針のような悲鳴が蒼衣の鼓膜を貫いた。間髪入れず、今度はガシャーン! と凄惨な音が鳴り響く。蒼衣は何事かと振り返った。


「……ビビ、お前」


 ビビが、壊れたサイレンのように喚いて、泣いて、ケージに必死に体をぶつけているのだ。傷が付くのも構わず何度も何度も、とてつもない威力で。金網の奏でる騒がしい音と甲高い嘆きの叫びが、蒼衣の心臓を引っ掴んで無茶苦茶に振り回す。


 なんで。まるでもう会えないって分かったみたいに。蒼衣は高音で鳴きながら一心不乱に壁に体当たりするビビの姿を見て、ようやくビビが何をしようとしているのかに気づいた。


 ビビがケージをぶち破った先に目指す場所は--青い海面。まるで蒼衣に見せつけるようにビビは水中を目指しているのだ。彼女にとって、あそこはもう暗闇でしかないはずなのに。


 ビビに頰を張られた気分だった。見くびるなと怒鳴られた気分だった。


 一緒にショーに出て。2人にしかできない演技をバンバン決めて。2人の絆をこれでもかと見せつけて。お客さんの歓声を全身で浴びる。


 その夢が、お前1人の夢だとでも思っていたのか--ビビの怒ったような声が確かに聴こえた。滂沱の涙が顎をがくがく震わせる。涙の味は、どうして海に似ているのだろう。


 無我夢中で駆け寄り、飛びつくようにビビを抱きしめた。弾力があって温かい肌。不思議な潮の香り。バカなことを考えたものだ。他の何を得られたって、この存在と二度と会えなくなる選択をどうして自分は取ろうとしたのか。


「俺の身勝手じゃ……ないんだな。この夢は、ビビ、お前が一緒に見てくれるんだな……」


 ビビが、何を当たり前なことをと鼻を鳴らしたようだった。


 だったら蒼衣はもう、二度と迷わない。待っていてくれとビビを説き伏せると、韋駄天の如くトレーニングプールを飛び出し、海原たちの姿を探して館内を遮二無二走り回った。



「ビビとショーに出たい気持ちは、俺のエゴじゃありません。ビビに怒られてようやく気づきました。だから……ビビをもう一度、舞台に立たせるために。俺にやらせてください。そして力を貸してください。お願いします」


 変わらぬ姿で待ってくれていたビビのケージの前で、彼女を撫でながら会議に乱入するまでの経緯を話した蒼衣は、今一度海原たちに頭を下げた。


 もう彼らがなんと言おうと、蒼衣は折れないと決めていた。さっき届いたビビの気持ちは断じて気のせいなんかじゃない。それなら蒼衣は命を賭けて、ビビの目になると決めたのだ。


「いいじゃないすか海原サン。どのみちビビ専用プールの提案が通っても、完成を待つ間ビビの負担を減らすために入水を試そうとはしてたんだから。イルカに盲導犬ってのも、2人の信頼関係なら雲を掴むような話でもない。この潜水バカならマジでイルカと同じペースで潜っちまいそうだし」


 上機嫌の黒瀬が蒼衣に目配せして海原をたしなめる。海原は顔をしかめつつも、蒼衣が強引にオーナーと話を進めてしまった以上、どのみちやらせてみるしかないことを分かっているのだろう、苦々しげに頷いた。


「……君の体に何かあったら元も子もない。体調には万全を期すように」


「はい。ビビのみにかかりっきりになるので、本来の職務の大半に参加できないと思います。ビビ1頭を特別扱いするのもトレーナーとして失格です。タダ働きで構いません。両親には今夜話をしようと思っています」


 本気でまくし立てた蒼衣に、海原は目を丸くして吹き出した。


「蒼衣君、教育学的にはこういうのは特別扱いじゃなくて特別支援って言うんだよ。教師もトレーナーも、そこの考え方は同じでいいと思う。なんのために僕ら仲間がいると思ってるんだ。他の仕事やイルカのことは、僕らに任せなさい」


「……はい。ありがとうございます……!」


 感極まって頭を下げた蒼衣に、海原が久しぶりに優しく笑った。


「帰ってきてくれてありがとう。まったく、君がいると退屈しないね」


 それまでずっと、黙って行方を見守っていた汐屋が、ぐっと勇気を振り絞ったように大股で蒼衣の前に進み出た。


「蒼衣君……お帰りなさい」


 日焼けか数日前より顔の赤くなった汐屋が、はにかむように破顔した。蒼衣もつられて笑う。


「ただいま帰りました」


 きゅう、とビビが嬉しげに一声鳴いた。海鳴水族館イルカチームの戦いは、今日からこうして再び始まったのだった。

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