第11話-1

 通算十数回目かにかけた電話は、やはり応答なかった。凪は重いため息をついて発信をキャンセルする。


 謹慎中の同僚で友人、蒼衣とは、この5日間音信不通の状態が続いている。怪我のことよりも、彼の精神面の方が凪は心配だった。不躾を承知で海原から連絡先を聞き、こうして勇気を出して何度も発信ボタンを押してはいるものの、一度も出てくれたことはない。


 やはりあの日、追いかけておけばよかった。凪は後悔した。けれどその背中に追いついたところで、凪は蒼衣にどんな言葉をかけてやれただろうか。


 トレーナーになってまだ時間の浅い彼が、それだけビビ1頭に特別な思い入れを持つのは至極当然なこと。そのショックは計り知れない。残り4頭のためにも通常の職務にいち早く戻るのがドルフィントレーナーの職責だとしても、それを蒼衣にすぐ理解しろというのは酷な話だ。


 だから海原は、謹慎という建前で休暇を与えたのだろう。だがそれはつまり、ビビのことはもう諦めなければいけないと暗に示したようなもので。


 蒼衣はもう二度とここに戻ってこないのではないかと、音信不通の日が嵩張っていくたびに不安が募る。


 この日も屍のように、それでもお客様の前でも精一杯の作り笑顔を貼り付けて、通常業務を終えたイルカチームは館内の多目的会議室に着席していた。"回"の字に囲まれた机。閉館後の作業を終えたら、ここのところ毎日館内会議が開かれている。


 議題は、ビビの今後について。


 開始時間の18時45分が近づくにつれ、続々と集まって来る海鳴のスタッフ達。主に意見できるのはスタッフの中ではイルカチームと、各チームのリーダーぐらいだが、館全体の問題ということで70名を超えるスタッフが一堂に会する。


「……今日も来なかったっすね、あいつ」


 蒼衣がいなくなってから、イルカチームの会話の数は随分と減っていた。黒瀬が海原に対して、仕事関連以外で口を開いたのが久しぶりに思えた。


「当たり前だろ。怪我が治るまで来なくていいって言ったんだから」


「電話も通じないってのに余裕かましてる場合っすか。海原さんは正しいことしか言ってなかったけど……あんなに熱くなるなんてらしくなかったんじゃないすか」


 黒瀬の口調は皮肉めいていた。容赦のないところはあるが、いつも穏やかで優しい海原があんなに声を荒げて怒鳴るなんて、凪も初めて見た。


「……熱くもなるよ。僕らにとって彼はもう、家族みたいなもんじゃないか」


 遠くを見たままぼそりと呟いた海原の灰色がかった瞳は、激しい後悔にゆらゆら揺れていた。


「せっかくいい仲間ができたところだったのに……彼が辞めてしまったら僕のせいだ。ごめんよ。成長していく彼の姿を見るのが嬉しかったから……きっと抑えが効かなかったんだろうね」


「ふざけないでくださいよ。蒼衣は必ず帰ってきます。その時一緒に、イルカチーム全員でビビのことを考えられるように、俺たちはビビを守らなきゃいけない」


「……そうだね」


 頼もしげに笑った海原越しに、上座側の出入り口から、長身痩躯の男性が品のある所作で静かに入室してきたのが見えた。凪の全身が凍りついたように動かなくなる。


 猛暑日にも関わらず一目で上等とわかるスーツをさらりと着こなし、館長の隣に座り穏やかに談笑するその姿は、恐怖さえ覚えるほど隙がない。


 50歳という実年齢を全く感じさせない、ロボットのように伸びた背筋と端正な目鼻立ち。全身から滲み出る品格。彼の姿に気付いたスタッフが次々にざわめき始める。


「来やがったか」


「ラスボスみたいに言わないの。隣に凪ちゃんいるんだよ」


「あ……すまん汐屋」


「い、いえ。ぜんぜん」


 凪は苦い表情でスーツの男を見つめた。


 彼の名は汐屋 源治しおや げんじ。海鳴水族館のオーナーにして、凪の実父である。海鳴水族館は源治の経営する『汐屋ビル』の子会社だ。


 普段は本社のある隣県で暮らしているが、海鳴水族館に何かあるとこうして会議に出席し、経営に口を出すことも少なくない。今日に限っては、イルカチームの方から彼を呼び寄せたのだが。


「大丈夫か? 今日は席外してもよかったんだぞ」


 黒瀬の気遣いに、心を強く持って凪は首を横に振る。今日が正念場なのだ。ビビを守るためには、あの男と戦わなければいけない。


 開始予定時間となった。全員が着席し重苦しい空気の流れる会議室で、進行を務める海原がよく通る声で切り出した。


「本日もお集まりいただきありがとうございます。昨日に引き続き、バンドウイルカのビビについて話し合いの席を設けさせていただきました。……汐屋オーナー。今日はお忙しい中ありがとうございます」


「構わないよ。この水族館は私の大切な場所だからね。ねえ館長、ここはいつ来ても美しい水族館だ」


「はは、ありがたい話です」


 館長の鯨川くじらかわが恐縮げに笑う。優しく動物思いの好々爺だが、彼も源治にだけは頭が上がらない。経営学に明るい源治の助言やアイデア、それから莫大な財力のアシストによって、実際に閉館の危機を何度も乗り越えて来た経緯があるらしい。


「オーナー、ビビの症状についてはご存知でしょうか。メロン器官が深く損傷し、機能を停止しています。原因は不明です。これまでのように水中で暮らすことは困難になりました」


「それは聞いてるよ」


「お耳が早くて助かります。昨日までに四度の会議を重ねまして、やはりビビがイルカショーに復帰するのは現実的ではないという結論に至りました。つきましては、イルカチームの方で今後ビビのために必要な設備を吟味し、提案させていただきました。資料をご覧ください」


 黒瀬が回した資料に目を落とす源治。あれは海原が多忙の合間を使って作成してくれたものだ。3人で話し合い、限界までコストを抑えた上でビビに最低限必須な支援を検討し、具体案にしたものがまとめられている。


「ご存知の通り、イルカは陸で長期間生活することができません。自分の体重で徐々に肺が潰れていくからです。今はスポンジ製のシートの上にビビを寝かせ、ケージに少し水を張って応急処置をしていますが、とても十分とは言えません。資料に示させていただきました通り、ビビ専用の小さな水槽を早急に用意する必要があります」


 前回の会議でこの資料を提出し、概ねの同意を得られたところまでは来ていた。凪たちの考案したこの水槽は、四面の壁がゴム素材でその上にスポンジを敷いており、ビビが体をぶつけても大事に至らないようになっている。そもそも1辺2メートル程度の小さな水槽なので加速の距離も満足に稼げないはずだ。


「ふうん……」


 源治はじっくりと資料に目を通していたが、やがて顔を上げた。心臓が激しく脈打つ。


 出資者の源治にビビ専用水槽の了承を得ることは、どうしても不可避の案件だった。どうにか最小限の費用に抑えられるよう考え抜いたとはいえ、少額ではない。ここにいる過半数と源治の納得が得られなければ、ビビを守ることはできない。


 昨日までの会議でこの案を検討し、もらった意見を参考に修正を加える作業を繰り返し、ようやくオーナーに提案する段階までこぎつけたのだ。


 --お願いします、お父様……!


「よく考えてあるね。コスト削減に頭を絞った跡が伺える」


 老若男女問わず魅了する微笑を浮かべて源治がそう言ってくれた途端、隣の黒瀬と同時にため息が漏れた。長い戦いが終わったのだ。この5日間、張りっぱなしだった気がようやく緩んだ思いだった。


「でも」


 源治が眉根を寄せて付け加える。


「根本的なことが分かっていないようだから聞いてみるけど、こんなものを作ってまで盲目のイルカを生かしてどうなるの?」

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